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『EATER on note』 遠藤ミチロウVol.2

取材・文・写真◎地引雄一

遠藤ミチロウ「ミチロウ」を語る        
 ―インタビュー集成―

第2回  ザ・スターリン誕生


 山形大学での学生時代に、学生運動やヒッピームーブメント、アングラカルチャーといった時代の激流を体験した遠藤ミチロウは、東南アジアでの一年間の放浪生活を経たのち東京へと居を移し、1977年渋谷のライブハウス、アピアを拠点にアコースティックギターを抱えて歌い始める。そしてパティ・スミスをきっかけとしたパンクとの出会いから、ザ・スターリンに至るパンクロックへの道を突き進んでいくことになる。
 

<ザ・スターリンへの道>


 
―――ヒッピーからパンクへ変わっていったのは…?
ミチロウ  なんかね、1977年頃の大晦日の夜中にウッドストックの映画をテレビでやってたのね。それ観て、すげえイヤになっちゃって。「バカヤロー」って。そんとき髪の毛はまだ長かったから、全部切って。それからだよ、全面否定だぁみたいになって。否定しきれない部分はいっぱいあるんだけどね。なんかやんなっちゃって。「髪切るぞォ!」みたいになって。

Woodstock 1970 Trailer

───アピア(当時は渋谷にあったライブハウス)はその頃から出てたんだ。
ミチロウ もともとスターリンやる前はあそこで歌ってたの。3年くらい歌ってて。おれ27(歳)で東京出てきて、最初はずっとアピアで歌って…。スターリンやり出してからは、あそこバンドはできないから…。
―――当時からアピアはアコースティック専門の店だったの?
ミチロウ そうそう。でもほかに芝居もやったりしてたけど。あと、自主映画の上映会とか。あそこ話し聞くとメチャクチャおもしろいよ。しょっちゅう警察が来るし、手入れ受けてるしね。
―――なんで? 
ミチロウ 芝居でみんなスッポンポンになったりね、客までスッポンポンになってやったりとかね。あと騒音問題とかね。みんな外に繰り出しちゃったりして、スッポンポンのまま(笑)。前は民家も近くにあったらしいから、警察が来たのとかしょっちゅうだったらしいよ。聞くと70年代前半のめちゃくちゃ面白い話がいっぱい。蜷川(幸雄)さんも演出家になる前に芝居やってて。

―――アピアのマスターの伊東(哲男)さん(『イーター』6号にインタビュー掲載)とは知り合いだったの?
ミチロウ そう。東京出て来てすぐ。
―――その頃ってギターは…
ミチロウ 弾いてたよ。弾いてたけど下手だったんだよ(笑)。ギター下手でねぇ。ギター弾くのが嫌になって、それでバンドにいこうかなって。でも、アコースティックやってる時でも、聴いてる音楽はパンクばっかなんだよ。パティ・スミスとか(セックス)ピストルズ聴いてるんだけど、やってる音楽はアコースティックだったのね。それでDEVOのライブかなんかを武道館で観て、やっぱりバンドやんなきゃと思って、それでバンド作り出したの。
―――友部正人さんのバックをやったっていうのは?
ミチロウ 東京に出てきてアコースティックやってアピアで歌ってる時に、友部さんがアピアで1か月間ライブをやって。その時手伝ってて、ずっと1ヶ月間。その時に友部さんのアピアのライブを手伝ったメンバーで、アマチュアで楽器ができるヤツだけ集めてバンドをつくったの。アピアバンドっていう。その中で俺も入ってた(笑)。
――― 吉祥寺マイナー(パンク/アンダーグラウンドの拠点となったライブハウス)に出だしたのはアピアのあとなんだ。最初はフォークのコンサートやってたんでしょ。
ミチロウ そうそうそう。そうだね、宮沢(正一)君なんかと一緒に。
―――ぶどう園コンサートとかいう…
ミチロウ (笑)ちょうどあの頃から変わり始めてたんだよ。一人で弾き語りなんだけど、エレキに持ち替えて、体中テープをグワッーと巻いたりとか、ミイラのようなカッコしてギター弾いたりとかね。ひょっとしたらそのままいったら灰野(敬二)さんになるんじゃないかって行きかけて(笑)、また戻ったけどね。
―――マイナーに出たのは東京ロッカーズはもうやってた頃だよね。
ミチロウ もうとっくにやってるよ。東京ロッカーズ全盛の時だね。スターリンの一番最初のライブは屋根裏だったんだけど(1980年7月)、同じ日にそのままマイナーに行って。最後がゼルダだったんだよ。ゼルダ終わったらワーッてなだれ込んで、「帰るな!」って言ってドア閉めちゃって、客帰さないでそのまま演奏始めた(笑)。乗っ取りライブだった。

STREET KINGDOM 東京ロッカーズと80'sインディーズシーン PV


―――スターリンのこと最初に聞いたのゼルダの小嶋サチホさんだったんだよね。「すごい面白いバンドがいた。地引君が絶対好きになるよ」とか言われて(笑)。その時のことだったんだ。スターリン始めた時からああいうパンクな…
ミチロウ 感じになってたよ。だってその前に自閉体とかやってるから。自閉体の時から一応パンクバンドのつもりだったんだよね。スターリンやる前の自閉体って言うバンドで、螺旋っていうバンドと一緒にやったんだけど、向こうはストラングラーズじゃない、スタイルが。こっちから見ても圧倒的にパンクっぽいんだよね。それから比べると俺達ってフォークロックみてぇだなって思って(笑)。ダメだこんなんじゃ(笑)、もう一回つくり直そうと思ってね。自閉体解散してから半年間、パンクバンドをつくる養成期間っていうのをやって、メンバー集めてもう一回やり直しとか言ってね、それで始めたんだもん。
―――あ、ほんと。(杉山)晋太郎は最初からいたの。
ミチロウ シンタロウはまだその時はいない。乾(純)君はいたよ。あと金子(あつし)ってやつ。俺としては、スターリンの前の自閉体からパンクバンドのつもりだったんだよね。
―――シンタロウに聞いたことがあるんだけど、ろくにベースが弾けない状態でスターリンに入ったって。
ミチロウ 全然弾けないよ。メンバーに入れてから教えて、一週間経ってからツアーに連れてったんだもん。「ここがCで」とかいって「とりあえずコードの頭を押さえてればいいから」とか。ルート弾きしかできなかったんだから。C、G、Aって曲だったらCとGとAの音だけをガガガガガガってやってるだけだった。「シド・ヴィシャスになればいいや」みたいな感じだったから。
―――ルックスで選んだの?
ミチロウ そうだね。BOY(高円寺にあった雑誌『DOLL』が経営するパンク喫茶)で溜まってたら、シンタロウがいて、「アイツ、かっこいいなぁ」とか言って。パンク好きだって言うし。シンタロウの方は「ダサい、兄ちゃんが来たなぁ」って思ってたらしいけど(笑)。
―――その時期、日本の場合最初のパンクのインパクトみたいなものは終わって、流れとしてはもう…
ミチロウ もうニューウェイブになってて、いわゆるハードパンクっていうのは時代遅れだっていう時だったの。あんまりねピストルズ・スタイルってなかったんだよ。
―――なかったよね、最初から、日本には。
ミチロウ 俺が東京ロッカーズを観に行った時に、ピストルズ風のバンドがいなくて、「なんでだ?」って思って。そうそう、なかったんだよね。けっこうみんなニューウェーブになってて、P-MODELとか…。フリクションはいたけれど、リザードでしょ。だからあんまりなかったんだよね、ピストルズ・スタイルって。
―――ミラーズは最初はそういう感じがあったけど。
ミチロウ ミラーズはギャング・オブ・フォーみたいな感じだと思ったけどね。
―――短期間でどんどん変わっていっちゃったから。
ミチロウ そうそう。スターリンやった時はもうPILの時代だからね。スターリンやりながら聴いてたのPILだもん。「『メタル・ボックス』いいなぁ」とか言ってね(笑)。

PiL: Album & Metal Box super-deluxe box sets (official unboxing video)

───半年間のパンク養成って、どういう方向づけでまとめてったの。
ミチロウ 頭ん中はね、ピストルズとコントーションズが合体してるんだよ、なぜか。出したシングルも1曲はピストルズ風、1曲はコントーションズ風なんだよ。「電動こけし」と「肉」って出したでしょ(1980)。「肉」のほうはちょっとピストルズ風にハードパンクでいって、「電動こけし」はどちらかというとコントーションズっぽい、ちょっとニューヨークっぽい、そういう感じだったね。
 だから客とグチャグチャやったりとかっていうのは、コントーションズの影響なんだよね。ジェームズ・チャンスが客殴りながら、自分も客に殴られながら青タンつくって歌ってるって、「わあ、いいなぁ、それパンクだなぁ」と思って(笑)。そうなんだよね。やっぱ、あの『ノー・ニューヨーク』(1978)がすっごい好きで。
 PILのファーストと『ノー・ニューヨーク』がバイブルだったんだもん。コント―ションズはその後出たアルバム『BUY』(1979)よりも『ノー・ニューヨーク』に入ってるコントーションズの方が好きだったんだよね。なんかまだもっとパンクっぽかったから。

James Chance & The Contortions - Dish It Out

ミチロウ もともとだからね、ニューヨーク・パンクの影響がすごいでかいから。おれ、東京に出てきて、一番最初に聴いたのってパティ・スミスなんだよ。アコースティックで歌い出した時に、最初に聞いたのがパティ・スミスで、アコースティクやりながら毎日パティ・スミスばっかり聴いてたんだよね、ずっと。その後、テレビジョンとかニューヨーク・パンクばっかり聴いてて。だからニューヨーク・パンクのほうが俺にとってはパンクのイメージがすごい強くて、ロンドン・パンクになった時に、ピストルズやダムドは好きだったんだけど、そんなに影響受けてないんだよね。
 だからスターリンやり出した時には、コンセプトとして,日本にピストルズないから、そういう存在になろうっていうコンセプトで始めたから。

写真@地引雄一 1981年6月4日 松本


 俺ね、もともとサイケデリックが一番好きだったから。サイケデリックって言っても、割とドロっとした…。だからパティ・スミスなんて、もろそうでしょ。最初の『ホーシズ』(1975)なんかを聴くと、詩の朗読から始まるようなドロっとした感じじゃないですか。だから惹かれていったのね。でもロンドン・パンクになるとバッドボーイズとかハードロックみたいな要素が最初の頃はあったじゃないですか。それよりはニューヨーク・パンクの方がドロッとした、ニューヨーク・アンダーグラウンドっていう感じの方が俺はすごい好きで。もともとイギリスのロックはあんまり聴かなかったからね(笑)。

Patti Smith - Gloria (Audio)

”Blank Generation” 「1976」 trailer - Ivan Kral di

 

<俺達は生贄だった>
 

 1980年の結成から注目を集めたザ・スターリンは、翌81年にはその過激過ぎるステージが一般マスコミにもセンセーショナルに取り上げられ、パンクシーンの中心的存在になっていく。
 
───スターリンが裸になったりして一番過激だった当時って、その場の空気って異常な世界をつくってたよねぇ。
ミチロウ つくってたねぇ、なんか。だって出る前の客の叫びが、「バカヤロー!出てこい!殺すゾー」とか(笑)。ほんとに出てったら殺されるのかなみたいな(笑)。それはたんに盛り上がってるだけなんだよね。敵意じゃないんだよね。敵意っていうよりは、客の方が興奮して盛り上げてるだけで、そういう言葉でしか表現できなかったんだよね。早く出てきてくれよって気持ちが「出てこい!このヤロー!」っていう世界なんだよね。

THE STALIN - 初期GIG

───スターリンを最初に観たのは、渋谷の駅前で三里塚支援のゲリラライブ(1980.10.18)があったじゃない。リザードや白龍がでた、あの時で。あと法政(大学)でケネス・アンガーのフィルムを流しながらやってたやつ。
ミチロウ そうそう。あとは『灰とダイヤモンド』流しながらやって、横浜国大で。ドアからバターンって倒れるとこあるじゃないですか? あそこに合わせて「アーチスト」かなんかやって。
―――その次が新宿ロフト(1981.5.21)で裸になった、一番混沌とした状況で。客は殴りかかってくるわ、金子君がその客をギターでブン殴るわで。
ミチロウ そうだね、あのころが一番…。
―――最初は唖然としたけど。スターリンの音楽ってさ、普段は表に出ない潜在的な欲望とかエネルギーみたいなのを解放するんじゃないかな。
ミチロウ だからね、客の反応もそうなんだけど、俺達が存在することによって、普通はいい子しているヤツが、実は根に狂暴なものを持ってると、ついそれが出てしまうみたいな、そういう引き出す役目なんだよね。生贄なんだよ、要するに。俺達が生贄になることによって、客の持ってる潜在意識を引っぱり出すみたいな。
 だから最初のステージっていうのは、俺達客殴ってないんだもん。客に殴られてたんだもん。もう客にされるがままになってて。俺は歌ってるだけなんだけど、客がケリ入れたりとか、俺達に物ぶつけたりとか。
 きっかけは、俺達が最初に臓物投げたりして、客のそういう潜在意識に火をつけるのね。その次に俺達がステージに飛び込んで歌うことによって、その引っぱり出された客の潜在意識が狂暴化してって、ワァーっとなっちゃって。俺達ボロボロになって帰っていくと、客は押さえられてた潜在意識が解き放たれて「ウオー」って、ブルース・リーの映画観たあとみたいになって帰って行くという(笑)、そういうライブだったよね。
 それも20~30人とかのうちは俺等も相手できるけど、百人超えてきたらもう体もたないから、やめようっていうことになって(笑)。俺等が出るだけで客が勝手にバァーッてなるから、もう俺達はただひたすら歌うだけになっちゃったんだけどね。

写真@地引雄一 1981年6月5日 1981年8月27日 新宿LOFT FLIGHT7DAYS4


―――それは意識してやってたの?
ミチロウ それは感じてたよ。最初は違ったんだけど。最初はとりあえず客にインパクトを残せばいいっていう。嫌われようが好かれようが、ああいうバンドがあったという印象づけるだけだったのね。それをやった時に客がみんな怒っちゃって。トラッシュ(新宿歌舞伎町にあったライブハウス)でやった時だね。たしかノンバンドと一緒だったと思う。客が生ゴミだらけになって、客やほかの出演者なんかもみんな怒っちゃったのね。会場からみんないなくなっちゃって、「これじゃもう誰も出してくんねぇだろうなぁ」って思って。
 次にライブやったら、その噂が広まったのかバーッと客が集まってきたの。「これはすごいな」って思って。口コミで広がったから。とりあえず怖いもの見たさで、そういうバンドがあるなら見たいって客が集まってきたから。これはいいってことになって、それから連続してそういうことやり出したら、人がバンバン増えていって、それで味を占めてやってるうちに、だんだん収拾つかなくなっちゃって。ケガ人は出るわ、自分もケガするわっていう世界になって。
 客が入ってくるだけで会場がギューギューになっちゃって、それで酸欠がでるとか、入れない客が会場の外で騒いでパトカーが来るとかってなって、どこもやらしてくれなくなっちゃって。もう広い所でやるしかないなと。
 広いとこでやるようになったら、広いとこは会場規制がうるさいから、ちょっとそういうのは止めようって自粛したんだけど、客だけはもう気持ちがこんなになってるからね。広い会場もどこも貸してくれなくなっちゃって、地方に行くしかなくなって。で地方に行ったんだけど、週刊誌に取り上げられたから地方の会場も貸してくれなくなって。それこそピストルズと一緒だよね。どこも貸してくんなくなったから、このままじゃライブができないって状況になったから。

The Stalin - Live at 慶応大学日吉校舎 1981.6.27.

 それと『爆裂都市』(石井聰亙監督 1982年3月公開)に出て名前が知られるようになって、徳間と契約してメジャーデビューする(1982年7月)ようになったから、「もう止めよう、そういうことは」って言って。後楽園ホールだけ貸してもらえたのかな。後楽園ホールしか貸してくれなかったのね(1983年5月)。
―――あそこはプロレスやってるから(笑)。
ミチロウ そうそう、キックボクシングとかプロレスやるところだからいいんじゃねぇかって。で後楽園ホールでやったらいきなり……、ラビッツを前座に出したらラビッツが出てきたとたん客が暴れ出して「スターリン出せ!」とか言ってワーッて暴れて、折り畳みのイスを投げ始めて、始まったとたんにグチャグチャになっちゃって。
 会場がやばいってことで客電つけて、会場を全部明るくして。それでスターリン出さないと収拾がつかないっていうんで、客電点けたままスターリンが演奏を始めて。1時間位で終わっちゃったよ、グタグタになって。爆竹は鳴りっぱなしだし。それで、後楽園ホールも貸してもらえなくなった。どこも貸してもらえなくなっちゃった。

THE STALIN - 先天性労働者 (1983)

THE STALIN - 冷蔵庫 (1983)

 爆裂都市 バースト・シティ(予告編)

 
 

<パンツのはけない留置所>


 
―――そういうので、恐怖感とかなかったの。客の方がどんどんエスカレートしてって。
ミチロウ あったんだけど、でも楽しかったんだろうね。けっこう決死の覚悟だったんだけど。クスリもなんにもやってないのに、すごいもう、クスリやってカーッとなってる状態と変わらんかったもんね、自分の感覚が。出る前なんての、もうすっごい興奮しちゃって、自分で。「行くぞ! 行くぞ!」みたいになってて。なんか今考えると、なんちゅう世界だったんだろうなぁと思うんだけどね(笑)。今だったら怖くてできないなっていう。
―――シンバルとかが飛んできたこともあったでしょ。
ミチロウ いや、シンバル飛ばしたのはこっちだもん。バスドラ投げたりとかシンバル飛ばしたりして。あと椅子が飛んできたりとかね。歌ってると、イスが上飛んでくんだよ。ドラムにガシャとか当たってたりとかね。ドラムは逃げらんないから可哀そうだよね。俺は避けることできるけど、ドラムは叩いてるから避けようがない。演奏してたらパッと音が消えたから、アレっと思ったら、メンバーいないんだもん、誰も。みんな楽器壊して帰っちゃったりとか、5分くらいで。フリクションも最初は似たようなことやってたんだよね。
――― いや、やってないよ。あんなことやったのはスターリンとあとはじゃがたらでしょ。
ミチロウ いや、だから、じゃがたらの影響ってでかいんだよ。
───あ、そうなの。
ミチロウ うん。(江戸)アケミがフォークでグワーッてブッチャーみたいなことやって血を流したりとかやって、あとヘビ囓ったりとかで、もうちょっとあっちの方がショーっぽかったよね。

じゃがたら - 無差別テロ (Live@渋谷屋根裏 4/19/1981)

―――アケミも、ジェームズ・チャンスを知って「あぁ、これはいい方法論だ」と思って真似したら、バンドのメンバーが全然理解してくれなかったとか言ってた(笑)。
ミチロウ あ、やっぱそうだったの。ジェームズ・チャンスってやっぱでかいね。
―――アケミとしては表現の方法論として客殴ったりとかやってたつもりらしいんだよね、本人は。
ミチロウ メンバーが理解してくれなかったんだ。うちらと逆だね。メンバーがだんだんけしかけてくるんだもん。最初は生ゴミだけだったのがさ、裸になったりさぁ。でも痛い目みるのは俺だけなんだよね。だから皆よけい「もっとやろうぜ」とか言ってね。逮捕されるのも俺だけだしね。
───ハハハ。今歌ってる「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」(『ベトナム伝説』1984)っていう曲で「パンツのはけない留置所は寒いです」っていう歌詞があるじゃない。
ミチロウ うん、捕まった時の話そのままだよね(1981.11.4.横浜関東学院高校でのライブで裸になり逮捕)。俺が捕まったって話がパンク界に広まったら、やっぱりいるんだよね、下着を差し入れてくるファンの子とか。何人か来たらしんだけど。「おまえは彼女がいっぱいいるのか」「え? どうしたんですか」って、「女の子がいっぱい下着とか差し入れに来たんだ」って。でも俺にはくれないんだよ。まぁ2泊3日だったけど、留置所に泊まってる間、下着穿かせてもらえなかったのね。でも聞いたら差し入れでいっぱい下着とか入ってるんだよ(笑)。
───それ、「普段から穿いてないんだ」って言ったんでしょ。
ミチロウ そうそう。普段から穿いてないってしないと、そん時だけわざと穿いてなかったっていったら、意図的に最初から裸になる予定だったっていう、計画犯罪になるから。「いやぁ、いつも穿いてないんだ」と、興奮してつい裸になったんだってことにしないと、軽犯罪というか罰金じゃ済まなくて、下手したら起訴ってことになるから、それでわざと言い張ったんだよね。だから「オマエは穿いてないからいらないよな」とか(笑)。たぶん知ってんだよね。「持って帰れ」とか言われて、持たされて帰った(笑)。それでもう裸になるのやめたんだけどね。

遠藤ミチロウ × VOICE & RHYTHM - お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました (1986)

ミチロウ あの曲はそれから1年くらいして作った曲なんだけど、その捕まった話も歌詞の中にブチ込んで。実際、カツ丼喰ったのは事実だし、隣にヤクザがいたのも事実だし(笑)。寿町って横浜のドヤ街だから、捕まってるヤツらがまたロクでもないのばっかなんだよ(笑)。ヤクザとか詐欺師とかそんなのばっかで。「オマエ、なんで捕まってきた?」って聞かれて、「いやー、チンポだして」とか言ったらバカにされたもん。そういう痴漢とかね、軽犯罪的なので捕まったヤツって格下なんだよ、逮捕されたヤツの中で。殺人は独房だからさすがにいないけど、傷害とか窃盗とかそういうのは格が上で、そのつぎ詐欺とか、だんだん格が下がってきて、痴漢とかそういう類いは一番格下だったの。
――― そのてに見られちゃったんだ。
ミチロウ そうそう。順番があるんだよねぇ。罪の重さによって中で順番が決まっちゃうの。ひとり痴漢がいたけど、やっぱそいつもクソミソ言われてたもんね。「馬鹿野郎、女に痴漢とかやって、最低の男だな」とか言われて(笑)。俺の方は女にいたずらしたわけじゃないから、バカなことやってるくらいで楽しまれてたけどね。
 
 
1997年8月6日  三鷹
1994年6月8日  三鷹
 

第3回8月25日掲載予定 スターリンから弾き語りへ
ザ・スターリン解散までの裏側と、弾き語りによるソロ活動への転換を語る。


写真@地引雄一 1981年6月5日 松本

遠藤ミチロウ(1950~2019)

1980年代、ザ・スターリンによって日本のパンクロックを牽引し、社会的センセーションを巻き起こす。第二期スターリン解散後は、ギター弾き語りを中心にエネルギッシュな活動を続け、全国をまわってその歌を届ける。2011年、生まれ故郷福島での原発事故を受けて、プロジェクトFUKUSHIMA!の結成を主導。独自の視点から福島の再生を目指す。その後も病と闘いながら、常に新たなテーマに挑み続けてきたが、2019年4月膵臓癌のため逝去。享年69歳。
 

地引雄一

1978年に始まる東京ロッカーズのムーブメントに、カメラマンやスタッフとしてかかわり、以後DRIVE to 80sなどのライブハウスイベントの開催、テレグラフレコードの設立など、初期のパンク、インディーズ・シーンの形成に尽力する。その時代を記録した書籍『ストリートキングダム』改訂版がK&Bパブリッシャーズより刊行されている。遠藤ミチロウとはザ・スターリン初期にライブイベントやツアーを共にし、スターリン解散以降も交流は続いた。プロジェクトFUKUSHIMA!にはカメラマンとして参加している。

STREET KINGDOM東京ロッカーズと80sインディーズシーンPV


『EATER』  

90年代に地引雄一が発行していたインディーズ・マガジン。東京ロッカーズから続くパンク、ニューウェーブ、オルタナティブ系の音楽を中心に、映画や舞踏などサブカルチャー全体をインタビューを主体として扱う。遠藤ミチロウは1号と5号にインタビューを掲載。
2014年には東日本大震災以降の時代を背景に『EATER 2014』をK&Bパブリッシャーズより刊行。遠藤ミチロウのインタビューも掲載される。





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