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Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち第9話『 “SPEED” “FOOLS” “TUMBLINGS” “TEARDROPS”』

取材・文◎カスヤトシアキ
話/野月ジョージ(ミュージシャン)
話/中村俊彦(クリエイター)
話/山口冨士夫(ミュージシャン)
話/ケンゴ(ミュージシャン)
話/ジニー・ムラサキ(クリエイター)
V T R◎音源提供/Andy Shiono

http://andys-video.com/

資料提供/青木ミホ
写真/鈴木

 ※タイトル画像はSPEED/右端から青木眞一、ケンゴ、井出裕行、ボーイ/Photo by Suzuki

 

『青木家のルーツから見た、青ちゃんが育った風景』

 

 青ちゃんの父親の人生には太平洋戦争が大きく影響している。青ちゃんのお父さんは兵隊として戦争そのものには行かなかったが、戦時徴用船の船員としてハワイ沖で拿捕され、数年間ハワイで捕虜生活を送ったのだ。

  戦時徴用船とは、太平洋戦争で軍需輸送のために徴用された日本の民間商船のことである。攻撃を目的とした戦艦ではない。あくまで物資を運搬するための民間商船のことだ。それを連合軍は容赦無く狙った。撃沈された船数およそ2500隻。戦死した船員は実に6万人。一般船員の死亡率は43%で、この数は海軍軍人の2倍以上にのぼったという。

  しかし、青ちゃんの父親はただじゃ転ばない。いや、沈まなかった。このハワイ・捕虜時代に英語を身に付けたのだ。簡単に言えば、ペラペラと喋れるようになったのである。帰国した青ちゃんの父親は、この新たなる得意技を駆使して、東京に設立された『コカ・コーラ社(東京飲料株式会社・のちの東京コカ・コーラボトリング(株))』の社長専属通訳という特別職を得た。

 ちなみに日本での『コカ・コーラ』の販売は意外と古く、大正3年に遡る。当時の高村光太郎『狂者の詩』のなかでも、“銀座/コカ・コーラ”など、モダニズムを象徴する扱い方をされている。

 高村光太郎「狂者の詩」

 
 日本での『コカ・コーラ』のボトルが製造されたのが昭和24年(1949年)だから、青ちゃんが生まれる前年である。『コカ・コーラ/東京飲料(株)』が設立されたのが昭和31年(1956年)、青ちゃんが小学校に入学するころだ。青ちゃんの父親を通訳として重宝していた『コカ・コーラ』の社長は、自らが山口県に引っ越すことになったとき、「一緒に来てくれ」と誘ったのだが、日本堤を離れなかったのだという。

1949年(昭和24年)日本で「コカ・コーラ」ボトルの製造開始

  青ちゃんには姉が二人いる。青ちゃんが小学生の頃には二人とも独立していたというから、少しばかり年が離れていたようだ。だから、青ちゃんは両親からは一人っ子のように育てられ、年の離れた姉たちからも優しく接しられ、甘やかされていたらしい。そう聞くとなるほどと合点がいく。青ちゃんの、あの得体の知れない頑固さと下町気質には、こんなバックボーンがあったのかと、実に腑に落ちるのだった。

  さて、青ちゃんの父親の話に戻そう。『コカ・コーラ』の社長専属通訳業の仕事は確かに魅力的ではあったが、青木家は日本堤を離れたくなかったらしい。ゆえに思い切って青ちゃんのお父さんは、『コカ・コーラ』の通訳の職を離れて独立することを選択したのだった。そして、河童橋に“タオルや手拭いを扱う店”を作った。そこで製作した手拭いなどを『歌舞伎座』に卸していたというから、きっとオリジナリティ溢れる商品だったのだと思う。

  青ちゃんの物語はこの辺から始まるのである。

  青ちゃんこと青木眞一は、地元の小学校を出て台東区の山谷三丁目にあった中学校に通った。日本堤にある青木家から川に向かってまっすぐ行ったところにあったのだが、途中、何人も日雇い労働者が道路で寝ていて、それをまたいで通う登下校風景だったという。女生徒たちは安全のために遠回りしていたというから、当時の環境には、昔の山谷独特の風景が流れていたのかもしれない。

 高校は県立の商業高校に通った。実はボクシングをやりたかったのだが、目指すボクシングの有力高校が私立だったので、諦めて公立に入り剣道に打ち込んだという。ところが、商業高校だったために女子が多く、突然のモテ期が訪れた。そこら辺からではないだろうか。青木眞一が自らを意識していくのは…(あくまで勝手な推測であるが…)。

山谷の風景/当時は浮浪者がそこらで寝転んでいたとか。

急がばまわれ from『TEARDROPS LIVE 1990 ' BAUS THEATER' - Vintage Vault Vol.2(DVD+2CD)』


青木眞一/プロフィール
1951年1月5日生まれ。東京都出身。1970年、セツ・モードセミナー在学中に『村八分』初代ベーシストとして音楽活動を始める。1976年『スピード』でギタリストに転身し、1980年、伊藤耕たちと共に『ザ・フールズ』を結成。1983年からは山口冨士夫と行動を共にし、『タンブリングス』→『ティアドロップス』で活動するが、1987年、冨士夫の活動停止と共に、ジョージと『ウィスキーズ』を結成し、限定的ながらも印象的な活動をした。その後、1991年まで『ティアドロップス』で音楽活動をするが、バンドの休止と共に自身の音楽活動も終了した。最後のステージは2008年11月8日の山口冨士夫クロコダイル・ライヴでの飛び入りであった。2014年、12月18日、63歳でこの世を去った。


『“村八分”後の青ちゃんが“スピード”になったころの風景』


◉ 1972年には、早くも『村八分』に見切りをつけた青ちゃんが東京に舞い戻っていた。この年には沖縄が返還され、パンダが来日し、札幌冬季オリンピックが開催されるなど、日本にとって嬉しいニュースが重なったのだが、そんな事は青ちゃんには関係ない。他にも、田中角栄内閣発足や、日中国交回復、など、まさに戦後の日本のターニングポイントだったのだが、そんな時期に青ちゃんはケンゴを頼りに高円寺に転がり込んでいる。

[NHKスペシャル] 沖縄返還に携わった人たちの思い | 証言ドキュメント “沖縄返還史” | NHK

ジニームラサキ/「青ちゃんは結局、『村八分』なんか眼中になかったんだよ。ただ、あのころ、世界から注目されていた京都に行ってみたかっただけなんだ」

◉9月に行われた『山口冨士夫トリュビュートLIVE』で久し振りにジニー・ムラサキに会ったとき、同じタイミングで京都に出向いた青ちゃんの心情を語ってくれた。

ケンゴ/「青木は、“俺が! 俺が!”って注目を集めたい性格じゃないからさ、人前で目立とうなんて考え方はハナっからなかったんだよな」

◉なんて言いながら、ケンゴと青ちゃんは‘76年に『SPEED』を組み、79年までの4年もの間、活動を共にしている。『SPEED』は高円寺がホームグラウンドであったが、同じ中央線界隈で活動していたバンド、『ミラーズ』、『ミスター・カイト』とともにジャンプロッカーズと題したシリーズ・ギグを定期的に開催し、その活動は1978年から始まる東京ロッカーズのムーブメントにつながったといえる。

Mirrors - Passenger (Live in Tokyo 1979)

Mr. Kite - Crazy or Lazy

◉福生の『UZU』で始まった『SPEED』の活動は、4年間だったのだが、その最後になる年には、‘79年の同志社大学で行われたイベントに出演し、それを当時ちょうど再編成しようとしていた『村八分』のメンバーが見に行っている。

SPEED/青ちゃんとケンゴ

冨士夫「チャー坊と哲とオレと、あと誰だっけな、いろんなヤツがいたよ。みんなでスピードを見に行った。青ちゃんを見て、いいじゃないってことになって、みんなでその夜一緒に飲んだとき、青ちゃんがコップをバーンってぶつけて、暴れる寸前で帰って行ったのを覚えているけどね。青ちゃんも酔っ払ってくると何するかわからないからさ」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより

SPEED/青ちゃんはカッコから入るのだ。思いっきりパンクである

◉まるで目に浮かぶようである。青ちゃんは京都の水が合わなかったのだ。このときまで10年近く経っていても、『村八分』は青ちゃんにとって懐かしいシーンではなく、苦々しい思い出だったのかもしれない。

Money / 村八分(from "1979")2019 Remaster

※村八分再編成は、解散から6年経った京都での出来事。関西のテレビに出演した。

冨士夫「東京ロッカーズの骨太の部分、青ちゃんは東京にいる間、それをやっていたんだね。その後、スピードから始めて、音楽を諦めないでベースをギターに持ち替えて、それでももっと自分のやりたいことっていうんで、終いにはフールズになるわけ。フールズになる直前くらいかな、なったくらいかな。オレが久しぶりに(青ちゃんに)出会ったの。ヒラメっていうパンクな女に高円寺に連れて行かれてさ、青ちゃん家に行ったら、そこに溜まっていたのが、リョウ(川田良/スピード・フールズ)とか川上(川上浄/自殺・コックサッカーズ)とかだった。」(『村八分』K&Bパブリッシャーズより) 

Speed-Kiss Off (Full Album)

◉『SPEED』のメンバーは高円寺にあった『BLACK POOL』というパンク酒場に溜まっていた。店主は鳥井賀句である。当時、彼は『PAIN』というバンドを率いていたが、いっとき『SPEED』のマネージメントも引き受けていた。

 そこ(『BLACK POOL』)にある得体の知れない引力に引き込まれてきたのがリョウ(川田良)だったり、川上(川上浄)だったり、コウ(伊藤耕)だったりしたのだ。青ちゃん自身は『村八分』時代を嫌悪していたが、皮肉なことに周りは『村八分』だった青木眞一をリスペクトしていたのである。どう乗せられたのか現場にいなかったので定かではないが、青ちゃんはこの少しばかり若い世代の神輿(みこし)に乗る格好で新たなるバンドを作った。御輿の上から担ぎ手の連中を見て、青ちゃんはきっとこう言ったに違いない。

「バカな奴らが集まって作ったバンドだから『FOOLS』にしよう」
って。

”つくり話” THE FOOLS from 2CD+DVD【On The Eve Of The Weed War】

 


『青ちゃんが “フールズ”を始めた頃の高円寺を眺める』


 突然だが、青ちゃんが住んでいた高円寺を、400年ばかりタイムスリップしてみようと思う。その頃の高円寺は小沢村と呼ばれていた。江戸幕府の礎を作ったと言われる徳川家光の時代(1600年代)の話である。

 家光は鷹狩りが好きで、江戸城のある千代田区から、鷹が多く生息する武蔵野の原生林まで遠征していた。この自然豊かな井の頭湧水の地域を、現在では三鷹(三領の鷹場)と呼ぶ。しかし、その鷹狩りに行くには、半蔵門から新宿通りを真っ直ぐ西方向に進み、新宿・中野・高円寺を越え、桃園川の浅い谷地(あさかや“阿佐ヶ谷”)を通って、荻が茂る窪地(荻窪)を抜けなければならない。当時、これは少しばかり面倒な道程なのであった。

「そこまで行かなくても鷹は居るだろう」

って、言ったかどうかは知らないが、通るのに面倒な浅い谷地(阿佐ヶ谷)の手前の小沢村(高円寺)の周辺も、鷹が生息しているような自然溢れる地域であった。そこには名高い寺のもとに門前町が形成されていたので、休息をとるのにうってつけだったのだ。

ある時、徳川家光将軍がそこで鷹狩りをして遊んでいる時に突然の雨が降り出した。

「此処で少し雨宿りしていこうか」

 って、立ち寄ったのが高円寺というお寺だったのだとか。その寺がお気に召した家光さんは、のちの鷹狩りの度に高円寺を訪れるようになる。すると、小沢村と呼ばれていたその辺りの地域が、将軍様にあやかって高円寺村と地名を変えた。

 そこからずっと現代まで、高円寺と呼ばれているのである。

 宿鳳山高円寺/地名高円寺由来寺院

 その高円寺は、現在に至るまで二度の変貌を遂げている。一度目は1923年(大正12年)に起きた関東大震災。被害の少なかった高円寺周辺に東京市の中心部から多くの避難民が流入したのだ。いきなり人口の増えた高円寺周辺は、昭和のはじめ頃ともなると、新興住宅地として発展する。商店の数も増加し、活気溢れる街に発展したのだが、今度は東京大空襲であっという間に焼け野原となったのである。

戦後の高円寺北口駅前風景……何もない

 そのような七転び八起きの東京の街特有の歴史を経て、現在の高円寺の姿に近くなるのは、戦後の闇市を経て、東京オリンピック(1964年)が行われた頃からなのだとか。

昭和27年高円寺二丁目辺り/この上に環七が走る。(※すぎなみ学倶楽部)

 

昭和27年/牛の放牧/現・高南中学校(東高円寺)付近(杉並区立郷土博物館)

区制20周年記念映像「杉並物語」 【昭和27年制作】

 商店街もそれまでより整備され、大小合わせて14もの数になり、それぞれの個性をかもし出すようになる。

そんな高円寺の商店街を足の赴くまま適当に歩いて行く。

昭和の商店街をカラー化 ~高円寺商店街を巡る~

 1979年に完成した南アーケード(高円寺パル商店街)を青梅街道に向かって歩いて行き、アーケードを抜けた青梅街道手前の一個目の信号を右に曲がって、さらにフラフラと行くと、その三軒目くらいにある古いアパートに行き着いた。

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「‘80年頃だったと思うけど、俺と青ちゃんはココに住んでいたんだ」

 そう言って、“とお〜い目”をするのは、かつて『TEARDROPS』のデザインなどを手がけていた中村俊彦氏である。

中村「このアパートは可笑しな造りになっていてね、2軒のアパートが対になっているようなイメージなんだ。だから、俺の部屋に入って裏窓を開けると、そこはすぐに狭い通路になっていてさ、その窓から半身を乗り出して手を伸ばせば届く距離に、隣りのアパートのドアがあるってワケ。そのドアの向こうには青ちゃんが寝そべっているんだよね(笑)」

◉そのヘンテコなつくりのアパートに、2人は向かい合わせで4〜5年住んでいた。

中村「そんな風に近い距離感だったからさ、俺と青ちゃんは、殆ど毎日行き来していたんだ。音楽的嗜好が似ていたから、2人して音を楽しんでいることが多かった」

◉中村に言わせれば、青ちゃんは“優しくて気風が良い男”だったらしい。

中村「それを現すのに印象深いエピソードがあるよ。ある日、青ちゃんが『ONLY ONES』の新譜『Baby’s Got a Gun』を買ってきたんだよね。当然、俺も大好きだからさ、“カッコいい”なんて聴きながら、2人して大盛り上がりしていたんだよ。そのうち、あんまり俺が羨ましそうにしているんで、青ちゃんは“ チンチロリンで勝ったらこのLPやるよ”って、突然に言いだしたんだ。コッチが遠慮する間もなくサイコロを転がしてね、結局、俺が勝っちまったんだよね。そうしたらさ、“ほらっ、持っていけよ”って、あっさり言うのさ。そうしたら、青ちゃんたら、翌日に同じLPを買ってきてね、“安売りしてたからさ”って誤魔化し笑いをするんだけれど、バレバレなんだよね」

The Only Ones-Baby's Got a Gun

The Only Ones - No Peace For The Wicked -OGWT

◉確かに青ちゃんは、下町気質の気風の良さがある。2人して共有した快感を一人占めしたくなかったのだろう。仲の良いお隣さんにも分けることにしたのだ。

中村「こんなこともあったよ、別の日に部屋を訪ねると、青ちゃんがちょうど、ペヤング(ソース焼きそば)にお湯入れたばかりでさ、俺を見て、“おめえも食うか”って訊くんだ。俺の顔にハラペコって書いてあったかどうかは知らないけどさ、返事も訊かずにパル商店街の乾物屋に走って行っちゃった。それから一緒にペヤング喰ったんだけどね。あんときの味は生涯忘れられないよ 。今までで一番旨かった食いもんのひとつだね(笑)」

1979-1989

◉「思い起こせば、俺たちはいつだってダラダラとベッタリしていたような気がするんだよね」とか言いながら中村氏が話を続ける。

中村「ビックリしたのはさ、“コレ聴いてみて”って、あるカセットテープを聴かせてもらったときのこと。“村八分が初めてシラフでスタジオ入って一発撮りしたテープなんだ”って言っていたのを憶えているんだけど、そのテープの出だしのフジオちゃんのイントロが奏でられた瞬間、なんて表現したらいいのか解んないほどに脳天まで鳥肌立ったんだよね。チャー坊の唄もはっきりと聴こえるし、ライブ盤とはまた別の、心に残る何かをもらった気がした。それが10年後の1990年に『草臥れて』としてリリースされるんだけどね、あの時はほんとうに驚いたなぁ」

◉『草臥れて』のスタジオ盤(といってもdemoだけれど)は、この時の青ちゃんが持っていたカセットテープから起こしたものである。世に出るには、この時からさらに10年の月日を要するのだ。

村八分 草臥れて

◉1980年当時、青ちゃんが『THE FOOLS』を結成したばかりの高円寺はどんなだったのか。中村氏の目線で、高円寺の ミッドナイトへと飛んでみようと思う。

中村「高円寺の真夜中の楽しみのひとつが、バッタリと誰かしらに出会うことだったんだ。深夜2時から3時にフラッと北口駅前のミスタードーナツに行くと、必ず誰かが居るんだよね。そこから、その夜の遊び方が決まるんだけれど、まだ若かったオレにとって、それは、まるでストーンズの『ミッドナイト・ランブラー』を気取った世界観だったんだよね。

Midnight rambler

 例えば、店先で出会ったのが良(川田良/フールズ)なら、ブラックプール(鳥井賀句の店)か高架下の安居酒屋に呑みに行く。

 耕(伊藤耕 /フールズ)だったら、そうだな、何か楽しいことを求めて高円寺、阿佐ヶ谷あたりをしらみつぶしに彷徨うんだ。知っている店すべてに顔を出してね、『よう、何かねえのかよ?』ってなワケ。

 もし、青ちゃんがアパートの窓辺でつまんなそうにもたれ掛かっていたら、気楽に笑いかけてさ、どちらかの部屋で朝が来るまでレコードでも聴きながら、ひたすらに音楽談義に花を咲かせればいい。

 だけどさ、佐瀬に出会ったら、要注意なんだよ。奴は洋式のトイレが苦手でさ(当時はまだ和式のトイレが存在していた)、ミスタードーナツのトイレを“ガタガタグシャン!”って、ブッ壊したことがある。それでいて、涼しい顔して出て来るんだ。でも、あの時は思いっきり笑ったな、何をやっていても愉しかったんだ」

FREEDOM'91 / THE FOOLS

 

◉まるでストーンズの歌のごとく、時間を忘れて遊び廻った高円寺の夜が、遥か夢の彼方で淀んでいる。日暮れから赤ら顔で街中を漂い、文化系のこだわり族から、バンド系のこだわらない族まで、エリート崩れの自由人までも巻き込んで、ワイワイと騒いで過ごすのだ。

【4K】夜の高円寺を散歩 サブカルチャーな街のディープな飲み屋街 (May 2023) | Night walk in downtown Koenji, Tokyo.

 東京の人口統計によると、高円寺周辺は20〜30代の若者の比率が際立って高くなっているという。ということは、常に同じ世代の若者たちがループしながら吹き溜まっているということなのかも知れない。

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 高円寺南口のロータリーを抜けて、斜めに住宅道を行くと、宿鳳山(しゅくほうざん)高円寺がある。遥か昔、寺の周辺には桃の木が多く生えていて、桃園と言われる由縁になったのだ。本尊は「桃園観音」、寺は「桃堂」と呼ばれ、門前を流れた川は「桃園川」と呼ばれていたのだとか。

高円寺駅名の由来にもなったお寺【宿鳳山高円寺】

 将軍様が気に入っていたという宿鳳山高円寺から、森林を西に向かい鷹を追ってみる。桃の木をかわしながら高円寺駅を抜けていくと、かつてそこにはミスタードーナツがあった。閉店した夢の跡とともに、真夜中の悪友たちもみんな、遥か先に逝ってしまったことに気づかされるのである。

「仕方が無いから何処かで呑むか」

 高円寺の門前を流れる桃園川に添って、川淵の浅い谷地(あさかや“阿佐ヶ谷”)を通って、荻が茂る窪地(荻窪)に行き着き一息ついた。北口にある老舗の焼き鳥屋に入って真っ昼間から呑むのもいい。

「alːku阿佐ヶ谷(アルーク阿佐ヶ谷)」阿佐ヶ谷-高円寺【4K】

 果てしなく繰り返す妄想は、懐かしい想いと共にいつまでも揺れているのだ。

【荻窪】焼き鳥と生ビール!昭和27年創業のコスパ老舗居酒屋で飲むアル中独身男

 

『 “FOOLS”から “TUMBLINGS”へ。冨士夫の登場が青ちゃんの道を分ける』


◉僕が青ちゃんと初めて会ったのは、法政大学で行われた『ロックスオフ』のオールナイトイベントだった。楽屋代わりの教室でギターのチューニングをしているサングラス姿の男を、

「彼が『村八分』にいた青ちゃん」

 と、冨士夫に紹介されたのだ。

「よろしく」

 青ちゃんが座ったままでコチラを見上げ、ぶっきらぼうに挨拶してきたのを憶えている。だけど、その時の僕はまだ、『村八分』のことも青ちゃんのこともよくわかっていなかった。ただ、その日の『FOOLS』のステージは、僕にとって生涯忘れられない素晴らしいシーンとして記憶している。ステージの袖から臨場感たっぷりに体験できたというのもあるのだが、とにかく理屈抜きに想像力を超えたのである。

THE FOOLS+FUJIO/1982年11月20日/法政大学学館ホール

※冨士夫が初めてFOOLSとセッションした貴重な音源の一部。ステージの全曲が存在する。(音源提供/Andy Shiono)

◉でも、これはあくまで僕の主観なんだけれど、青ちゃんにとって『FOOLS』はちょっと窮屈そうに見えた。はじけんばかりの耕のヴォーカルと、ファンキーなカズのベースに挟まれて、なんだかサイズの合わないジャケットを着ているみたいに思えたのだ。

THE FOOLS

 なんて思っていたら、次の瞬間には、久し振りに録音をすることになった冨士夫の横で、すっかりスタジオに溶け込んでいる青ちゃんがいた。

「『FOOLS』を辞めてきた!」と言う。

 予想外の行動だったので冨士夫は困惑した。“そこまですることなねぇだろう”なんて呟きながらも、結局は受け入れるのであった。このときの青ちゃんにとって、穏やかな雰囲気に戻っていた冨士夫が懐かしかったのかも知れない。

「冨士夫が、以前の(『村八分』前の)冨士夫に戻ったんだ」

 と、再び一緒にバンドをやる理由をケンゴ(『SPEED』)に語ったという。ケンゴも、かつての穏やかな冨士夫を知っている一人だったから、笑顔で理解したという。

 冨士夫にとっても、‘83年の『RIDE ON』のレコーディングに入るときに、青ちゃんがいることが心強かったようだ。‘71年に『村八分』から青ちゃんが去って以来の音出しであったのだが、自らの音楽活動の再出発に、心を許せる青ちゃんがいることが必要だったのかも知れない。

山口冨士夫 "Rock Me" (2014 REMIX FULL VERSION)

※ 『ひまつぶし』の『オサラバ』以外で、冨士夫が初めて作詞・作曲したオリジナル曲。音楽を辞めていた本人が、再出発する気合いが感じられる。

◉最初は『RIDE ON』を発売して、3ヶ月間だけキャンペーンLIVEを行う予定だった。ブッキングのことも何も知らない僕は、都内と横浜のライブハウス中心に週一のLIVEスケジュールを組んだ。3ヶ月間に12本のLIVEである。『新宿ロフト』『原宿クロコダイル』『渋谷屋根裏』『横浜セブンスアベニュー』『横浜氷川丸』などを回遊魚みたいにぐるぐると回ったのだ。さすがに客は徐々に減っていったのだが、バンドからの文句はなかった。 “バンドを固めたいから好きにブッキングしてくれぃ!”そう言って冨士夫は高笑いをした。

"rock n roll medley" from "

▲これはその3ヶ月間の中でのLIVE音源(『渋谷屋根裏』)である。屋根裏のLIVEもたぶん3ヶ月間、月いちでやったのだろう。その中の何回目なのかは覚えていないのだが、広告を制作する会社員だった僕は、クライアントとの打ち合わせと称したり、直帰パターンを連発することで会社を抜け出し、(広告業界は今でいうブラック企業だからね、不夜城なのですよ)上司の不信をかったのを覚えている。この屋根裏の時も同僚を伴って打ち合わせのついでに駆けつけたのだ。

 バンドが『TUMBLINGS』という名になるのは、この3ヶ月間の終いの頃だろうか。LIVEのギャラはそれほど多くなかったが、メンバーに等分配分した。まとめて冨士夫に渡すと、「俺は掛け算は得意なんだが、割り算は苦手なんだよ」なんてのたまうので、はなっから4等分にして渡した。その時にちょっとだけポッケに入れるのが、マネージャーの醍醐味である。それよりも練習スタジオ代や飲食代に加えて、楽器を運ぶための機材車を購入しなければならなかった。まだ20代の妻子持ちデザイナーには息が詰まるほどの負担だったが、時代が良かったのだろう。つべこべ言わずに働けばなんとでもなった気がする。高円寺にプライベートスタジオを借り、『TUMBLINGS』と『FOOLS』に加えて『WHISKYS』の専用としたのだ。

 3ヶ月のキャンペーンLiveが終了したら、今度は合宿に行くから金を出して欲しいと言う。長野の方に行ったのだろうか?滝に打たれて身を清める『TUMBLINGS』たち。

 

 機材車はメンバーが運転して移動していた。だから、時間はあてにならない。度々ライブハウスの客を待たせ、店からはクレームの嵐であった。


野外フェスで寝転びながら出番を待つメンバー。 左から二番目から、冨士夫、マサ(青木正行)、青ちゃん、ヒデ(小林秀也)◀︎切れていてごめんなさい


法政大学フェスでの楽屋風景。演奏の曲目をドラムのヒデ(小林秀也)がメモっている


ジョー山中さんが主催した湘南のイベントに参加したのだが、出番時間に間に合わず、大幅に遅れて大目玉を喰う。が、メンバーはケロッとしていた


実は、湘南のイベントの日にクロコダイルのLIVEも入れるというダブルブッキングをしていたのだ。ゆえに僕はクロコダイルでバンドの帰りを待っていたというわけ。なかなか来ないので焦った覚えがあるが、メンバーはケロッとしていた


 青ちゃんはギャラに関する文句は全くないのだが、LIVEやリハでの食事の配慮を怠るとふてるのである。だから、そこら辺は気をつけるようにした。いったん機嫌を損ねると面倒臭いのである。

 冨士夫もステージングに戸惑っていた。青ちゃん次第でメリハリがつくステージも、あうんの呼吸が通じなかったからだ。つまり、自分がやりたいことだけを押し通すのが“青ちゃん流”といえばいいのだろうか。僕が知っている限り、カッコつけの青ちゃんが、本当に恰好良くなっていくのは『TUMBLINGS』が終わるころ。冨士夫が度々、アッチに療養に行ってしまうので、切羽詰まった青ちゃんがフロントに立ち始める。そこから遅咲きの花道が伸びて行くのだった。

んッ!! from DVD+CD『山口冨士夫 Tumblings Live』

 ※この映像を見て「目が回るよ、勘弁してくれよ」って、晩年の冨士夫が笑っていたのを覚えている。


『 “WHISKIES”のジョージとのコンビで開花した青ちゃんのパフォーマンス』

 

 花園神社の『酉の市』に偶然出くわして、青ちゃんを電話で呼んだことがある。「すぐ行くよ!」って、二つ返事だったのに、1時間近く待っても青ちゃんは来ない。いい加減「帰っちまうぞ!」と思った時だった。「よっ!」っと、軽く手を上げて青ちゃんがやって来た。参宮橋近くにある自宅から歩いて来たのだという。そりゃあ、時間がかかるだろう。怒りよりも呆気に取られた。

熱気爆発❗️【2022 新宿花園神社・酉の市】11月28日 三の酉 本祭〜熊手屋台・露店・見せ物小屋、3年ぶり復活で最終日に猛烈ヒートアップ‼️

 
 開口一番、「一銭も持ってねぇぞ」って挨拶代わりの台詞を言う。それでも、いつものこと、覚悟の上で誘っているのだ。取り急ぎ近くの屋台に陣取り、「なに、喰う?」って聞くと、「好きなもん頼みなよ! 横からつつくからさ」って、そんな感じなのだ。ひとしきり呑んで、喰って、笑うと、「あ〜、酔っぱらった! 気持ちいいから帰るわ、じゃな!」って、あっさりと、フラフラしながら帰って行くのだった。

 

フラフラ / Whiskies (ウィスキーズ、7インチシングルリマスター復刻&未発表ライブ2CDより)

 
 そんな青ちゃんが、自分でバンドを作ったことがあった。名前は『ウィスキーズ』と聞いて笑ってしまった。『IWハーパー』の水割りが大好物で、ライヴの打ち上げの時の青ちゃんは、必ず『ハーパーのシングル』を所望したからだ。おまけに、バンドは飲み助のジョージと組んだと言う。「これは酒代がかかるぞ」まずは、そこから覚悟したのだ。

 

Throw Away / Whiskies (ウィスキーズ、7インチシングルリマスター復刻&未発表ライブ2CDより)

 バンドはやってみなきゃわからないところがある。『ウィスキーズ』は意外とカッコ良かった。「あったりめぇだろ! 俺がメンバーを選んだんだぜ」って、青ちゃんは江戸弁で啖呵を切っていたけれど、最近になってジョージから「俺が青ちゃんと飲みながらメンバーを選んだんだよね」って、遠慮がちの告白を聞いた。そんなジョージから聞いた当時の青ちゃんエピソードを紹介しようと思う。

 

LAMES / Whiskies (ウィスキーズ、7インチシングルリマスター復刻&未発表ライブ2CDより)

 
 ジョージ「青ちゃんは『自殺』のLIVEをよく観に来ていたんだ。必ずサングラスかけてね、目立たないところにいるんだよ(笑)。なんで毎回見に来てくれるのか、俺にはその理由がわからなかった。(実は『自殺』の川上(Vo.)が青ちゃんの家に入り浸っていたのである)だけど、ライブの度に顔を合わすから喋るようなって、ごく自然に親しくなった。その頃の青ちゃんはなんのバンドをやっていたんだろう? 『フールズ』だっけ? そうか、俺は『フールズ』を観に行ってなかったから、そこら辺のことは知らねぇんだな。

自殺「どうしようかな」(曲:村八分)

 
 そんなわけで、青ちゃんとは顔見知りになった。音楽性が似ているっていうか、酒の好みが合うっていうか、とにかく青ちゃんとは仲が良かったんだよ。あの頃は本当にウィスキーばかり飲んでいた。だから、どこかの店のカウンターで青ちゃんと並んで呑んでいた時に、“バンドやろうぜ”って話になって、俺と一緒に『コックサッカーズ』をやっていたマーチン(Dr)と宮岡(Ba)をメンバーに入れたんだ。マーチンはワイン好き。宮岡は下戸だったけどな(笑)。俺と青ちゃんはウィスキー通だったから『ウィスキーズ』さ。あたりメェだろ、なんちゃってね(笑)。

「すすけた男」:Cocksuckers(コックサッカーズ)

Mann 2021/03/29 ShowBoat

 ※『コックサッカーズ』時代の“すすけた男”を『藻の月』では“Mann”にアレンジして演奏している。

 そういえば、『ウィスキーズ』をやっている時に、一回だけ青ちゃんと喧嘩したことがあるよ。高円寺に『一休』っていう居酒屋があるんだけど、そこで青ちゃんとやっちまったんだな。俺も酔っ払っちゃってよく覚えていないんだけどさ、たぶん曲を作らない青ちゃんに文句を言ったのかも知れない。カバー曲ばかり(青ちゃんが)やっていたから、「作らねぇのかよ」くらいのことを気軽に言っちまったのかも知れないな。そこが青ちゃんのウィークポイントだったなんてわからないからさ、酔いに任せて軽口を叩いちまったんだよ。悪いことをしたよ、本当に。怒った青ちゃんは黙って店を出て行ったっ切り戻って来なかった。後で当時の青ちゃんの彼女が言っていたんだけど、その後、青ちゃんは電車の線路に寝転んだらしい。“本当かよ“って思ったさ、どこの線路だよ? って聞きたかったけど、聞けなかった。ソレからは、青ちゃんの格好つけるポイントが何となくわかるような気がして、あまり物事に突っ込まないようにしたのを覚えている。でも良かったんじゃねぇの、青ちゃんはその後の『TEARDROPS』では、あんなに曲を作っているんだからさ。『Funny Day』だよ、ほんとうにさ(笑)」

 

'Funny Day' from 『TEARDROPS LIVE 1990 ' BAUS THEATER' - Vintage Vault Vol.2 - 』

※ちょっぴりトんで、サンフランシスコの高架線の土手に寝転んで、街行く人たちを眺めたりすると、こんな歌ができるのかもね。


WHISKIES(青木眞一Vo,Gu/ 野月ジョージVo,Gu/ 宮岡寿人Ba/ マーチンDr/)



WHISKIESの活動は約1年間だった


『 “TEARDROPS”は青ちゃんがやっと弾けた瞬間だった。そのまま弾け飛んじゃったけどね』


◉青ちゃんが冨士夫と共に活動した『TEARDROPS』が始まる1988年頃は、バブル景気真っ盛りだった。当時イギリスから来た友達が「日本はまるでフライパンの上だね」って言っていたけれど、まさにその通り。子供から大人まで“アチアチ”って飛び跳ねながら地に足がつかず、絶えず動いているのだけれど、仕事も金も遊びも忙しいばかりで、ぐるぐる回る景色に馬鹿騒ぎする毎日だった気がする。

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 そんな中で『TEARDROPS』が、東芝EMI制作部の全スタッフが猛反対する中、3年契約をした。スカウトしたのは同社の統括制作部長だった。部長はクラシック畑だったので、現実と非現実を旅する冨士夫の本来の姿を知らなかったのである。冨士夫は音楽界のタブーとされ、なかなか誰も触れようとしてくれなかったのだが、鮎川(鮎川誠)さんとシーナさん(シーナ&ロケッツ)の(勇気の)おかげで、パンドラの箱から飛び出すことができた。その矢先の部長の出現だったのだ。

【公式】シーナ&ロケッツ レモンティ【LIVEアーカイブ】

TEARDROPS - うまダマ (うまくダマしたつもりかい)

※日本テレビ・11PMに出演(突然に出演依頼があった)。パブリシティとして、メジャーに行ったメリットの一つだったが、シングル『瞬間移動』ではなく、直球ではあったが、インパクトのある選曲でやってみようということになった。
 
 『TEARDROPS』や山口冨士夫の安全性は、清志郎さん(忌野清志郎/RCサクセション)や、泉谷さん(泉谷しげる)のアルバムやLIVEにゲスト参加するこで確認していただき、“問題を起こしません!”というお墨付きをもらった。

RCサクセション マネー

※Guest/Gu/Vo/山口富士夫

風に吹かれて RCサクセション

※Guest/Gu/Vo/山口富士夫

泉谷しげる 土曜の夜君とかえる

※Guest/Gu/山口富士夫
 
 加えて、若手の『ボ・ガンボズ』や『プライベーツ』にリスペクトされる頃には、久保田麻琴さんのプロデュースで『スライ&ロビー』とコラボする機会を得る。その『スライ&ロビー』が演奏して、“忌野清志郎/作詞”というプレゼント作品、シングル『谷間のうた』をリリースする頃が『TEARDROPS』にはターニングポイントであった。“これは外せないぞ”まるで階段を二、三段飛び越して上がっている気分のまま、サンフランシスコやジャマイカで録音し、再び『11PM』の要請によりTV出演をした。

TEARDROPS - 谷間のうた

※再び日本テレビ・11PMに出演(この日の番組ゲストは、デニス・ホッパー。彼に見せて感想をもらうという趣向で、歌詞の英訳テロップも載せて演奏したのだが、全く相手にされずに茶番に終わっている)
 
 しかし、『谷間のうた』は、歌詞が卑猥だという理由で、『FM東京』から放送禁止のイジメを受けることとなる。ソレに怒ったのは『タイマーズ』のゼリーだった。『夜のヒットスタジオ』で、抗議の放送禁止用語を放ったのだ。“ざまぁみやがれ!”画面に面と向かって、一緒になって言葉を吐き捨てスッとしたが、レコードは売れなかった。放送禁止なんだから仕方がない、そう思うことにしたのだ。

タイマーズ「FM東京」事件ヒットスタジオR&N 放送事故

 
 しかし、それらは青ちゃんにとってはバッチリはまっていた時代だった気がする。肩の力を抜き、格好の付け方を身に付けた青ちゃんは絶好調だったのだ。曲もコンスタントに作れるようになったし、相変わらずモテモテだった。そして、それより何より、結婚をして可愛い女の子を授かったのである。

Furafura

 ※スラロビでのテイク。チャボさんもギターで入っている。清志郎さんも駆けつけたのだが、3テイクでさっさと録音して、風のようにスラロビが去った後であった。清志郎さんのがっかりした子供みたいな苦笑いが脳裏に残っている。

TEARDROPS/in京都

“Something” (Beatles) Japanese covered by 黒い三角定規

※東芝EMI主催『ロックの生まれた日』/黒い三角定規(青木眞一/TEARDROPS・手塚稔/ THE PRIVATES・三宅伸治/MOJO CLUB)


TEARDROPS/楽屋にて


TEARDROPS/高木ちかし(S A X)の歓迎会?まずは呑むことから始まる
TEARDROPS/ツアー告知(ハガキ)
TEARDROPS/後楽園ホール公演・告知(ハガキ)


 

 あっという間の3年間であった。メンバーが再び非現実に行き始めたタイミングで活動を休止することにした。

Owari no Dance

※バンドの解散を予感させるように冨士夫が作った曲

 同時に青ちゃんは、すべての音楽活動から身を引く決断をする。でも、正直言って、時間が経てばまた始めるだろうと僕は思っていた。冨士夫は相変わらずソロで活動をしていたし、かつて、青ちゃんが『ウィスキーズ』を作ったときのように、突然のお呼び出しがあるんじゃないかとどこかで期待していたのかも知れない。

Good Night

※青ちゃんが当時付き合い始めた彼女のために初めて作ったオリジナル曲。結局、その彼女とは結婚したので(現・奥さん)ハッピーエンドなのだが、バンドよりも家庭を優先する姿に、冨士夫はいつも嫉妬していた。

 しかし、待てど暮らせど、青ちゃんの噂はどこからも流れて来なかった。いつだったか、じれったくなって、一度電話をしたことがある。 『TEARDROPS』が終わって数年が経っていたが、少しばかりのいたずら心もあってかけてみたのだ。でも、その時はハズレだった。青ちゃんはカッコつけだが、それ以上に頑固だったのだ。バンドが終わるときの音楽を辞める決心はとてつもなく深かったのである。

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 こうやって、振り返ると、人生の流れは速い。濁流に飲み込まれそうになった時間も、プカプカと気楽に浮かんでいたあの頃も、遥か遠くで淀んでいる気がする。瞬く間に、何十年かが過ぎ去り、つまらないこだわりなんかどうでもいい年齢になった。そして、気がつくと、ゆるやかな流れの中で青ちゃんとも再会をしているのだった。

 15年くらい前、久し振りに会った青ちゃんと、『日本提の土手』の入り口で待ち合わせて、たくさんに散らばっていたお互いの思いを確かめた。

 人生を旅に例えるなら、青ちゃんとの時間は、ゆるやかな風景を行き交うバスの中にある。冨士夫との旅は、本人が言うように船旅なのだろう。港から沖に向かって進みながら、しばらく陸地とはお別れする覚悟が必要になるからだ。

 でも、そんな時間が宝物だったことは、いつも後になってから気づくものなのだ。その時は空を眺めるように当たり前に過ぎて行くのだから。

 物語の最後の頃は、冨士夫の所に行くと、「青ちゃん、どうだった?」と聞かれ、青ちゃんと会うと、「冨士夫は大丈夫か?」と心配していた。そんな二人が面白かったし、切なかった。ずっと、お互いを気にしながら何十年も生きていたのだろう。

 ふたりの間を行き交うと、ほんの二十歳の頃に芽吹いた愉快な想いが、音に乗って楽しく共鳴していたように想う。

「ここまでおいでよ」って、

 二人がお互いを呼んでいるような気がしたのだ。

Koko made Oide

 どいつもこいつも、お前が愛した「ノックアウトさ!」ってね。

今ごろ、アッチで仲良く呑んでいるんだろうな

(第9話『“SPEED” “THE FOOLS” “TUMBLINGS” “TEARDROPS”』終わり▶︎第10話に続く)

●カスヤトシアキ(粕谷利昭)プロフィール

1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。

 

■LIVE INFORMATION■

●11月13日Mon. 原宿クロコダイル

〇藻の月 〇ポコペン+西脇一弘
〇燈akari & みつの
18:00/open 19:00/start
Ad 3.000yen/Day 3.500yen


■【WHISKIES/CD】発売中

※青木眞一(TEARDROPS)、ジョージ(自殺)、マーチン(フールズ)、宮岡(コックサッカーズ)による、ウィスキーズ唯一の音源であるシングルリマスターを初復刻!山口冨士夫のカバーを含む未発表ライブを2CDに収録!




【山口冨士夫 / 渋谷屋根裏 1983(2CD)】

9/13out💽/没後10年を迎えた山口冨士夫の誕生日である8/10、本日解禁⚡️83年の完全未発表ライブ、初音源化/幻の未発表曲「雨だから」を収録した2枚組CD!





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