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Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち


第15話『NON・ノン』

話/写真提供◎NON
取材・文◎カスヤトシアキ

『『GOD』という、しゃくしゃになったメモ書き』

1984年というと、もう40年も前の話になる。
 
その頃の僕は広告会社に勤めていて、赤坂のマンションの一室を仕事場として使っていた。そこは某印刷会社が借りてくれていたスペースで、勤めていた広告会社には内緒のオフィスだったのである。つまり、当時の僕は会社員でありながらフリーの仕事も受けてまくっていたのだ。いまでいえば、究極の副業人間とでも言えばいいのだろうか。しかし、そのアイデアはあまり上手くいかなかった。20 代の終わりにさしかかっていた僕は、自信過剰な無責任人間そのものだったし、風呂敷をデカく広げ過ぎたために、たためなくなることがままあった。走馬灯のように流れる毎日の中で、寿命の短いハムスターのように、ところかまわず走り続けては物事を喰い散らかす日々だったのである。
 
そんな過剰なるブラック労働の毎日に異質な色を投げてくるのが山口冨士夫率いる『タンブリングス』だった。やってみてわかったことだが、(個人的に関わると)バンドというものは、何かと金がかかる。その割に見返りは少ない。結局、会社以外でやっていたフリーの仕事のギャラの大半はバンド活動に流れていった。高円寺に自前のスタジオを借りたはいいが、明確な展望も無く、行き当たりばったりの現実を進んでいたら、非現実に浮遊した冨士夫が、突然の“旅”に出て行ってしまったというわけだ。

さて、当時、その少し先に見えていた風景が、『GOD』とのジョイントLIVEだった。あの頃の冨士夫は対バンを組むのを嫌がった。客が入ろうがなかろうが、ワンマンでやるのが定石だったのだ。だから、『GOD』との対バンLIVEはとても珍しいことだったし、次へと繋がる布石のような気がしていたのだ。それは、今でもずっと記憶のなかに残る、“くしゃくしゃになったメモ書き”のようなもので、捨てきれないでいる想いなのかも知れない。

その『GOD』と、なんと40年越しに想いが繋がった。今年の梅雨時に『藻の月』との対バンというシチュエーションだったのだが、奇しくも古いメモ書きを広げることができたのである。
 
そんなこともあり、古くから知っているのにすれ違っていた、『GOD』のヴォーカリストであるNONと話す機会を得た。20年ものあいだ沈黙をしていたNONが、再び、12年前(2012年名古屋『大須ell.SIZE』で『OXYDOLL』復活LIVE)に戻って来たインディーズの世界観の中で、今、いったい、何を想い、どこを浮遊しているのだろうか。聞いてみたいと思うのだ。
 

1982『OXYDOLL』大須ELLにて

NON/プロフィール


1964年名古屋まれ。16歳で中村達也と知り合いバンド活動を始める。ヴォーカリストとして10代から20代の前半に『OXYDOLL』『the GOD』と立て続けに活躍するも、その絶頂期に突然の失踪。90年代に復活するもすぐにまた音楽をやめ、約20年もの間沈黙を守っていた。2012年7月1日『大須ell.SIZE』にて復活。2014年11月22日『高円寺/稲生座』で『the GOD』再開。近年は、中村清、田畑満、山田和男、と『lemonsours』を結成した。現在は、『OXYDOLL』『the GOD』『lemonsours』ソロ活動と精力的にこなし、人生の中で今が一番充実した音楽活動を送っている。

『親父もお袋も真面目な人だった』

NON/俺が生まれたのは名古屋の昭和区っていうところ。うちの父親はね、電電公社(NTT)に勤めていたんだ。昔の公務員の給料は安かったからね、お袋はいつも内職をしてたよ。で、2人とも真面目な人たち。特に親父はほんとうに真面目だったね。そして優しい。お袋は今も健在で、また明日も会いに行くんだけれど、今は愛知県愛西市に住んでいるんだ。最近は何かとお袋のところに帰ることにしているのさ。よく似ているって言われるよ、お袋に(笑)。俺はお袋似なんだね、自分でもそう思う(笑)。

育った家は社宅だった。公務員だから名古屋市内を転々と引っ越すんだ。で、だんだんと(家の)間取りが多くなっていくというやつ。親父はさ、結局ね、肩叩きにあって、早期退職をしたんだ。電電公社(NTT)自体がそんな時期だったのかも知れないな。課長になってバリバリやっていたんだけどさ、あっさりしたもんだよ、パッと辞めちまった。だけど親父がおかしいのはさ、辞めたすぐ後から、勤めていた電電公社ビルの門番警備員に再就職したところ。昨日まで課長職で部下に対して指示を出していたのに、次の日からは門をくぐるその部下たちに対して、「おはようございます」って頭を下げるっていうの、できるかい?変わってんだよ、あの人は。普通やんないよね、そんなこと。でも親父は苦も無くそれをやっちゃうような人。そんな人なんだ。俺自身にも(親父の)そんなところがあるような気がしている。だからさ、似てるんだよ。何やっても苦にならないんだ。仕事でもね。

『小学校時代は詩を書くのが好きだった』

NON/俺は普通の子供だったよ。だけど、そうだなぁ、ちょっと変わったところもあった。どうしても生徒会に入りたくてさ、小学校5年の時、生徒会に立候補して当選したんだ。会長とかではなく、書記だったんだけどね。生徒会には4年から立候補できるんだけど、いつもダメで、でも、どうしてもさ、諦めることができなくて、6年生に親分みたいな奴がいてさ、そいつに頼み込んで手を回してもらったんだよな(笑)。そうしたら当選した(笑)。なんであんなにやりたかったんだろう?子供の頃の俺は緊張しいで、何かあると具合が悪くなるほど緊張する子供だったのに。きっと、ギャップなんだろうな、そんな自分との真逆が欲しかったんだと思う。そのことを書いた詩が朝日新聞の『小さな目』っていうコラムに掲載されたんだ。名古屋の市民版なんだけどね。応募して入選したんだよね。その詩のタイトルが『選挙』っていうんだ(笑)。

“選挙に受かって、みんなに胴上げされて、僕は宙に浮いている、なんて気持ちいんだろう“

みたいな詩を書いたんだよ。そしたらさ、入選した。そうなると誰だって調子に乗るよね。だから、それからの俺は詩を書き出したってわけ。テスト勉強するふりして、ずっと書いていた。それがもうどんどんどん溜まっていくんだ。

朝日新聞社/小さな目(画像はサンプルです)

NON/俺は妄想癖があるからね、1人遊びの妄想だけで完全に楽しむことができる。その詩はやがて架空のロックバンドを作り出すんだ。音楽も何もないのにカセットテープ買ってきて、カセットに架空の俺のバンドのクレジットなんかを書いてさ、曲もないのにカラのカセットにタイトルだけ書いて、本棚に飾っていたりしたんだ。いつか本当に自分のバンドで詩を作って歌いたいなって思っていた。そういう意味じゃ、夢が叶ったんだよね。

『中学で不良になる』

NON/中学の頃は不良だった。俺の中学時代は『校内暴力の時代』だからね。テレビドラマでは『3年B組金八先生』が流行っていて、校舎の窓ガラスが全部割れたりしている時代なんだ。俺たちは、チャリンコ暴走族とかいって、本物の暴走族の予備軍みたいなことをしてイキがっていたら、また、新聞に載ったんだよ(笑)。体育館の物置にあるマットから火が上がって、体育館が燃えて(ボヤ)、それを俺たちのせいにされたってわけ。確かに仲間の誰かがタバコを吸っていたんだけどね。でもさ、頭ごなしに決めつけられることに頭きた俺たちは、みんなで授業をボイコットして体育館の屋根に登っちゃったりしたんだ。その内容が新聞に載ったってわけ(笑)。

『実家から独立して働くことにする』

NON/実家から独立して俺が最初に住んだのは、今池の近く、千種と今池の中間ぐらいかな、16になる年だったと思う。そこに『喫茶メイト』っていう店があって、時給430円だったんだよね。高校を4ヵ月で辞めてそこで働き始めたんだ。『喫茶メイト』の次に働いた店が『シーレイ』って店。その店の時給が良くて店の寮に住み込みだったんだけれど、経営はギンギンのヤクザの事務所だった。事務所の兄さんたちはキャデラックやベンツに乗って、兄さんの彼女たちは風俗で働いているっていうベタな世界。影響されやすい俺は「かっけえ!」とか思うんだけれど、「たく(俺のこと)、お前はヤクザに向いてないからやめておけ!」って、事務所の兄さんに断られたんだ(笑)。その時に向いているって言われたらなったかもしれねぇな。どんだけ影響されやすいんだって(笑)。

今はなき喫茶メイト/千種駅前店

NON/達也(中村達也)とは、最初に働いた『喫茶メイト』で知り合った。その店に達也が客で来たの。彼は当時『ショッカーズ』ってバンドをやっていて、練習帰りに寄ったんだよ。達也がやっていた『ショッカーズ』ってバンドはさ、スリーピースで、『東京ロッカーズ』とか『めんたいビート』系のバンドが名古屋でやる時の前座で出たりしていた。当時の俺は『東京ロッカーズ』が好きだったから、『フリクション』とかをかけていたんだよ。そうしたら「なになに?」って達也とバンドのメンバーが寄ってきたりして、それですぐに打ち解けてさ、店から近い俺のアパートで、そのまま意気投合したってわけ。

FRICTION(フリクション)CRAZY DREAM ’78/12/31

NON/達也とは同い年だったってこともあって、それから「バンドやろうぜ!」なんて話になっていくんだよね。新栄に『チャンピオン』っていうキャバレーがあって、そこのね、コンテストって言えばいいの?そんなのに出たんだよ、バンド名は『サラマンダー』。『山椒魚』だよね。達也はその時、中学の同級生かなんかを連れて来た。 そいつを入れて、もちろん、達也がドラムで、俺がボーカルでやったんだけれど、でもまぁ、それは、ぜんぜん流しているだけっていうか、子供の遊びみたいなもんだったな。だから、うやむやのまんま終わってしまうんだよね。それが'81年か'82年くらいかなぁ?

1983年『the GOD』渋谷ラ・ママ

『ヤクザの事務所からゲイバーへ、華麗なる?転身』

NON/そこから俺、 ゲイバーっていうか、ゲイ・ディスコに移ったんだ。華麗なる転身だよね(笑)。『ハーフボーイ』っていう店。当時はニューウェーブっていうの?あったじゃない。その時流に乗って、ゲイがファッションとかの世界とリンクして、流行った時代だったんだよね。三宅一生とか、山本寛斎とかで着飾って、ちょっとオシャレな感じで遊ぶっていうやつ。店に流れる音楽もパンクだったりして、土日は店の雰囲気もディスコ風なんだけれど、平日はやっぱり、まあまあ本物の方々が来るんだよね。そんな店で俺は働き出したんだ。『ハーフボーイ』はその中でも化粧をしてショータイムもある店だったから、俺は水玉のミニスカート履いて、メイクしてね、『アルプスの少女ハイジ』を演るんだけれど、それが今になって思えば、俺の初ステージってことになるかな。

もう一つの80’S VOL 11!! (80’Sマニアに贈ります)

1983年『the GOD』目黒・鹿鳴館

『俺がNON(ノン)と呼ばれる本当の理由』

NON/『ハーフボーイ』は、シゲちゃんっていう人が店長で、タカちゃんていうの人がオーナーだったんだけれど、面接に行った時に、

「あんたって何?」って訊かれて、
「何ってナニ?」って返すと、
「男とまだやったことないの?」
「ない…、ないっす!」
「じゃあ、ノンケ?」
「はい、女好きです、すごい好きです」
「じゃあ、あんたの名前は今日からノンにしな!」

って言われて源氏名が『ノン』になったんだよ。そこからずっと今まで、その名前を使ってるんだよね。だからさ、『NON』はノンケのノンなんだよ。16(歳)の時にもらった源氏名をいまだに使っているというわけ。

{※「ノンケ」とは、同性愛者から見た異性愛者を指す言葉。 日本で生まれた造語であり、否定の意味を持つ「non」(ノン)に「その気」(そのケ)を組み合わせて「その気(同性愛の気)がない人」を表す。 男性のみを対象として使うことが多く、もともとは同性愛者たちの中で隠語の一種として使われていた言葉。}
 
NON/ちなみに『GOD』の名前も、『原爆オナニーズ』と『OXYDOLL』のアルファベットを組み合わせて『GOD』にしたっていうけれど、それは後付けよ。ジョンレノンの『ジョンの魂』ってアルバムに『GOD』っていう曲があるじゃん、ある時、良次雄(藤岡良次雄)と一緒にそれを聴いていたら、「次にバンドをやるんだったら『GOD』って名前にしたいんだよね」と言ってたんだ。物語っていつだってそういうもんじゃん。後付けでどんどん面白い話になっていくんだって。

良次雄の話が出たついでに彼の話をしようか。俺が最初に観たステージは、芸音劇場に来た『リザード』。俺はまだ中学から高校の間でさ、春休みだったのかな?『リザード』は黒の繋ぎを着ていたのを覚えているよ。その時の対バンが『スタークラブ』だった。ボーカルがヒカゲでギターが良次雄でベースがエディでドラムが大口だった。その時から良次雄のことは突出してカッコいいと思っていたんだ。

※藤岡良次雄/『STAR CLUB』『原爆オナニーズ』『スターリン』に在籍し、後に『OXYDOLL』のNON、GUN、中村達也と共に『the GOD』を結成する。


リザード TVマジック

消えたパンク・ロック? - THE STAR CLUB

『“ハーフボーイ”をクビになってから、本気でバンドを始めたんだ』

NON/『ハーフボーイ』で働いているときの俺は17(歳)だったのかな。毎日楽しくやっているある夜中にさ、バイクに乗った連中が俺のアパートの前でタムロって騒いでいたんだよ。そこで「ウルセェ!」って出て行ったら、速攻で喧嘩になっちゃってね、あっさりと警察に捕まっちゃったんだ。その一件が店にまで知れちゃってさ、俺の年齢がバレちゃった。未成年だったから飲み屋で働けねえじゃん。俺は年齢を誤魔化していたからさ、ぽんっ!とクビになっちゃったってわけ。

それで、やけを起こしてさ、東京まで遊びに行ったんだよ。ほんでもって、『屋根裏』に行ったの。そうしたら、ちょうどパンクバンドが幾つか出ていたんだよね。で、俺、そこでも調子こいてさ、フロアで騒いだりして、「だせえぞ!」とか、「もっと速いのをやれ!」とか叫んでいたら、ライブの終了後に出演者の奴らにボコボコにされちゃったんだよ。そんなこんなでズタ袋のようになって屋根裏の階段を降りて行ったら、俺のことを下で待っている男がいた。それでね、そいつが、「ニイちゃん、カッコいいね!」って言うのさ。何がカッコよく映ったのか知らねぇけど、「最高にカッコいいよ」とか言いながら名刺がわりのメモ書きをくれたんだよね。そこに『ももりん』って書いてあって、電話番号が書いてあった。その横に『ガーゼ』って書いてあったんだよね。

GAUZE - LIVE (1983)

NON/そのときの俺は『ガーゼ』ってバンドを知らなかったんだ。名古屋に戻ってきて、「『ガーゼ』ってバンドの奴から連絡先をもらったよ」なんて仲間たちに話しているうちに、ふっと、思いついたんだ。“ガーゼ”といえば“オキシドール”だろ!?『オキシドール/OXYDOLL』ってバンドをやろうって(笑)。

1983年『the GOD』新宿ACB

NON/そこから、どんどん曲を作り出した。『オキシドール』の曲は、俺と達也がベースで作った。ギターじゃないよ、ベースを弾きながら作ったんだ。その当時作った曲を今も全く同じ歌詞で、同じアレンジでやってるよ。 17歳の時に作った曲を60歳になった今も同じように歌っているんだ。自分では“そこが面白い”って気持ちがあるんだよね。

OXYDOLL - Communication 1983

『傷口に塗った“オキシドール”は絶好調だった』

NON/『オキシドール』のLIVEは『E.L.L./エレクトリック・レディランド』から始まった。でも、あそこはオーディションがあったんだよ。 オープンリハーサルっていって、お客さんをただで入れて営業させるの。で、それをオーナーが見てオッケーをだすシステムなんだよね。だけど、そのオーディションを受ける前に、俺たちは『スタークラブ』のミックに『オキシドール』のデモテープを渡してね、『スタークラブ』のステージアクトで出させてもらったんだよ。その後で『E.L.L.』に正式に出演したんだよね。俺たちはパンクだからさ、「客が暴れたりしたら二度とださねぇよ」っていう条件付きだったんだけれど、まぁ、さしたるアクシデントも起こらずに初回のLIVEの客の動員は50人くらい。だけど3回目か4回目のLIVEの時かな、リハが終わって、 近くにある『かどや』っていう焼き鳥屋があるんだけれど、そこでみんなで芋焼酎を飲んだんだよ。まだ俺たちはみんな17・18(歳)だったんだけどさ、ベロンベロンに酔っ払っちゃってさ、そんな状態で『E.L.L.』に戻ったんだ。そしたらさ、『E.L.L.』って店は入り口が階段になっているんだけれど、客がいっぱいで入れないんだよ。驚いたよ、ぐるっと建物を取り巻いちゃってさ、溢れているわけさ。初めての経験だったね、俺たちはまだ若かったからさ、ちょっと調子こいてたのかも知れない。そこからは帰る時もタクシーに乗ったりしてさ、いい気なもんだったよ。

ElectricLadyLand(エレクトリックレディランド)は、愛知県名古屋市中区大須にあるライブハウスである。通称はE.L.L.(エル)

『“新生・原爆オキシドール”は“スターリン”の“虫”に喰われた』

NON/そんなこんなで『オキシドール』は調子良かったんだけれど、1年も経ってくるとちょいとばかり違った話になってくる。きっかけはさ、『スタークラブ』にいたエディ(ベース)。エディは当時バンドもなくフラフラしていて、『原爆オナニーズ』をやっていた良次雄に「一緒にやろうぜ!」ってけしかけてたんだよね。だけど、『原爆オナニーズ』はドラムが抜けて活動ができない状態だった。それでさ、俺たちと一緒に『オキシドール』をやっていたドラムの達也に白夜の矢が当たったっていうわけ。

その前から良次雄からは聞いていたんだよね、

「ミチロウから『スターリン』の『虫』ツアーに誘われている」って。

それって、『スターリン』のメンバーになるってことだろう?って、俺は思ったんだけれど、良次雄は言うのさ、

「俺はツアーなんか行かねぇし、『スターリン』にも入んねぇよ」って。

だからさ、俺は気にしてなかったんだよね。それがさ、初めての『原爆オキシドール』のスタジオ・リハの日に、突然ミチロウさんが現れたんだ。そして俺のマイクを取って歌い出した。この力任せのミチロウさんによる実力行使で、俄然雲行きが変わっちまった。だから、初めての『原爆オキシドール』のスタジオ・リハは、ミチロウさんの乱入で想像もしなかった風景に変わってしまったんだよね。

当然の如く俺たちは、スタジオ終わりに話し合った。そうしたらさ、良次雄は1人じゃ嫌だって言い出したんだ。1人じゃ『スターリン』に参加したくないって。「達也も一緒に入るスタイルだったら参加してやってもいいぜ!」って言うのさ。オイオイって感じだけれど、まぁ、仕方ないわな、気がついたら俺、1人残されちゃってさ、『ノンボウイ』っていう、ソロ活動を始めるんだよね。

THE STALIN「虫」【ザ・スターリン/遠藤ミチロウ】

現在のOXYDOLL

『“ノンボウイ”と宍戸幸司“割礼”』

NON/『ノンボウイ』は、ノンとデビッド・ボウイとのかけ合わせ。だけど、数回しかLIVEをやってねえんだよ。その時の写真があるよ。その頃の俺は、『マーケット・メリィー』ていう、ブティックで働いていたんだけれど、その店の覚王山店に最近“変わった人”が来るっていうんだよね。覚王山の店長は女性の人なんだけど、「ノン、ちょっとなんとかして」とか言ってきたから行ってみたんだよ。そうしたら、“変わった人”っていうのは宍戸幸司(『割礼』)だったんだ(笑)。それで、なんとかするどころか、逆に意気投合して彼とユニットをやり始めた。宍戸君がベースで俺がギター、それとリズムボックス。まぁ、それもすぐに終わったんだけどね。

結局、ノンボウイは不発に終わった

20230326宍戸幸司(割礼 Katsurei) / ソフティ

『あっという間に“虫”カゴから抜け出た良次郎と達也』

NON/良次雄と達也が『スターリン』から帰って来た。あっという間に戻って来たっていう方がいいかな(笑)。抜けたまんま東京に居てさ、「来いよ!」って言うから中学の同級生だったGUNちゃんと一緒に上京するんだ。それが『GOD』の始まりになるんだよね。俺(NON/Vo.)、良次雄(Gu)、GUNちゃん(B)、達也(Dr)だね。

THE GOD/ストリートジャンキーブルース(Sound Only)

『“the GOD”誕生 』

🔳『the GOD』は、83年に名古屋で『OXYDOLL』のドラマーとして活動していた中村達也と、『the原爆オナニーズ』のギタリストだった藤岡良次雄が、1983年に遠藤ミチロウに誘われて『ザ・スターリン』に参加するも約3カ月ほどで脱退し、その後『OXYDOLL』のNONを呼んで結成したバンドとして、当時のシーンに紹介されている。バンドのフロントマンであったNONのスタイルが、当時のパンクシーンにおいて、髪は立てない、革ジャンは着ない、リストバンドもしないという異質な表現だったのが、かえって特徴的なのであった。幾多のメンバーチェンジを繰り返しながら作品を発表していき、近年はNONが復帰し、NON(Vo)、藤岡良次雄(G)、中村清(Dr)、Hagal(B)、K.K.(G / Total Ponkotsu System)というダブルギター編成で活動している。🔳

NON/俺にとっての初期の『GOD』は、83年に始めて86年までの4年ものあいだ突っ走った。キャプテン(レコード)から2枚のアルバムを出しているんだけれど、俺は86年に一度、失踪しているんだよね。キャプテンから出る2枚目のレコードの発売前だっていうのにふけたんだ。ヤンなっちゃったんだよ、全てがヤンなって失踪した。

God / hey girl!!

『幻に終わった“タンブリングス”とのジョイントLIVE』

NON/そんな中で『GOD』は、86年に『ロフト』で『タンブリンクス』とジョイントするはずだったよね。覚えているよ、あの時は俺も嬉しくてさ、ほんとうにLIVEを楽しみにしていたんだ。そのLIVEの少し前にさ、俺、冨士夫さんに偶然出会ったんだ。あの頃の俺は高円寺に住んでいたからさ、環七から駅に向かう南口の線路沿いの道を歩くと、『タンブリンクス』のスタジオがあったでしょ。ある日、そこのちょこっと先の喫茶店で冨士夫さんを見かけたから、思い切って話しかけたんだよね。

その時が冨士夫さんと初対面だったから、

「あの、俺、『GOD』のNONと言います。今度、『ロフト』で一緒しますのでよろしく」

みたいなことを言ったら、冨士夫さんは珈琲をぐびっ!っと、喉に流し込んで、

「おお、そうか、カフェインは効くぜ〜!」

なんて一言だけ返してきた。

山口冨士夫&タンブリングス ん!

NON/「おっ、かっけー」とか思いながら数日後のLIVEの日に『ロフト』に行ったらさ、入り口にマーチン(FOOLS)がいて、「冨士夫だったら来ねーよ」って言うのさ、「なんで?」って聞いたら、「タクシーのよ、扉によ、挟まっちゃってよー、怪我したんだよ」って言うんだよね(笑)。まぁ、そう言われりゃ誰だってピンとくるよね。残念だったけれど、俺たちだけで頑張ったよ。客も100人近く来て満杯だった。あの時の『GOD』のメンバーは、俺と良次雄とドラムが清(中村清)で、ベースが井出くんだったか、みさおちゃんだったか覚えてないんだけど、ギターに西脇くん(西脇一弘)がいた。(冨士夫が来なくて)メンバー全員が残念がっていたのを覚えている。

THE GOD 1984 No1 1/7

NON/俺が86年に失踪してから4年後の90年に、もう一回東京に来るんだよね。それで92年まで3年間『GOD』で再び活動してから、今度は完全にキレちまった。「もうやってられねぇ」ってなったんだ。

the GOD /螺旋階段のBLUES

2012年『the GOD』は復活した

『10代の頃の歌をいまだに歌える幸せ』

NON/思い起こせば『GOD』の最初の頃なんかひでぇ歌を歌ってたもん。

🎵オイラは金持ち、女を騙して懐あったか🎵

なんてね、そんな感じだった。

『オキシドール』の歌だって、あの頃の歌詞のまんまだし。達也が「お前、出来る?」って聞くから、「歌えるよ、自分の歌だもん」って。当時の歌を当時の歌詞のまんま、今も歌えるのってのは、幸せなことだと思うよ。それで、お客も来てくれる。そんなラッキーなことないよ。この歳でいつまでできるかわからないけどさ、どこまで身体が続くか、いつまでお客さんが来てくれるかだよね。最近よく言われるんだ、「歌がうまくなったね」って(笑)。それは「外さなくなったね」って意味さ、わかってるって(笑)

CD/OXYDOLL『 LIVE SUICIDE TAPE 1983』
『Quill』the GOD 9曲入り ニューアルバム/2021年12月01日
NON(Vo・Ag) RYOJIO(Gu) NAKAMURA KIYOSHI(Dr)
HAGAL(Ba・Cho) KAZUHIDE KIN(Gu・12Ag・Cho)
『Live Concert 2019』/2020年03月15日
2019.9.15高円寺SHOWBOATでのLIVEを収録 全9曲
「the GODライブ音源リリース。結成37年、
初のライブ音源です。海賊版に飽きたら!byNON」
『I space smile』/2017年11月22日
The GOD、10年振りの新譜!
オリジナル・メンバーのNON(Vo)、藤岡良次雄(G)に加え、
名盤「Speaker To Animals」等で叩いている中村清(Dr)、
そしてベースには、良次雄の盟友Hagal(B)、
新たなギターにはTotal Ponkotsu SystemのK.K.(G)が参加して
ダブル・ギターになった新生GODのミニ・アルバム。
The GOD

the GOD “Bulu Buru” 2019.9.15@高円寺SHOWBOAT

『これからのこと/WHITE TAXI』

NON/来年はね、『WHITE TAXI/ホワイトタクシー』っていうタイトルでイベント始めようと思っているんだ。俺のソロなんだけど、俺がホストになってさ、もう1人、別のソロアーティストを呼んで、ステージをやろうと思っている。第1回目はね、EBBYさん呼んだんだよ。『ハーネス』でやるんだ。

※EBBY(エビー )は、日本の ギタリスト,ソングライター,編曲家,音楽プロデューサー。JAGATARAの創成期からのオリジナル・メンバー。

WHITE TAXI vol.1 2025/1/11sat. 阿佐ヶ谷harness
出演*EBBY/NON
open18:30 start19:00  2500/2800➕1D

NON/『レモンサワーズ』も『GOD』も『OXYDOLL』続けるよ。頑張って楽しくやるさ。楽しめば俺自身も入り込める。なんてね、これからもよろしくお願いします。

lemonsours

(2024/11/06 秋葉原にて)

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