Tokyo Undergroundよもヤバ話●’70-’80/地下にうごめくロックンロールバンドたち第14話『Nobu/桑原延享(Kuwabara Nobutaka)音と共に生きていく』
話/◎桑原延享
取材・文◎カスヤトシアキ
『シスコで聞いた江戸アケミの訃報』
『FOOLS』の耕(伊藤耕)の歌ではないが、若い頃はまるで羽が生えたような気分になることがあった。高揚感が胸の奥から湧き起こり、どうしようもないほどにテンションが上がるのだ。
いやいや、別に何か仕込んでいるという訳では決してない。どっちかというと、ドーパミンが多く出る体質なのである。そのままのハイな気分で物事を決めようとすると、
「ちょっと待て、頼むから、一呼吸置いてほしい」
と、冨士夫(山口冨士夫)から“待った!”がかかる。
決め事を実行に移すのは冨士夫自身なのだから、むやみなノリで決めてもらうと困るのだ。そりゃあ、そうだろう。今だったらよくわかる。よくぞ、あれだけ付き合ってくれたものだ。振り返った時に映るはるか遠くの景色を眺めるように、そう想うのである。
久保田麻琴さんから連絡を受けたのも、そんなハイな季節だった。
「“スライ&ロビー”というタクシーが、あと1週間東京で営業しているんだけれど、使わないかぃ?」
という誘いを受け、さっそく乗り込むことにしたのだ。当時仲良くさせてもらっていた清志郎さん(忌野清志郎)やチャボさん(仲井戸麗市)にも話してみたら、せっかくだから乗ってみたいと言う。
The Taxi Connection Tour Sly & Robbie With Ini Kamoze + Half Pint & Yellowman Live 1986 (HQ)
とんとん拍子に物事が決まっていく中で、冨士夫だけがシリアスになっていった。曲ができないのである。歌詞はあった。清志郎さんがファックスしてきた“谷間のうた”というなんともいえない抒情詩が、冨士夫の家の壁に画鋲で止められていたのだ。
「この詩で、オレに曲を作れってか?」
そう言ったまま放っておかれた壁紙の出番がついに来たのだ。冨士夫のセンスが、今こそ問われる時である。
僕らが『TEARDROPS』として乗り込む“スラロビ・タクシー”は、ワンテイクごとに料金が上がっていくので、なるべく少ないテイクで決めなければならない。
結局、スリーテイクくらいでBasicを録ることができた。スタジオに入る寸前まで出来なかった曲は、ぶっつけ本番で本領を発揮する山口冨士夫の天才的なひらめきと、“スライ&ロビー”と一緒にスタジオ入りした“タイロン・ダウニー(Ky)”の、卓越した編曲により成立したのであった。つまり、ほとんどセッションの一発録りである。
TEARDROPS (山口冨士夫) - 谷間のうた〜素敵な泉〜(忌野清志郎詞)
そんな流れもあって、『TEARDROPS』の2ndは久保田麻琴さんのプロデュースでアメリカとジャマイカで行うことになり、2週間ほどのリハの後、年をまたいでサンスランシスコへと飛び立って行ったのだった。
僕は東京に残った。レコードが売れて印税で食っていけるバンドはいいのだが、それ以外のバンドはライブができないので収入がなくなることになる。プロモーションやツアーの準備もあるし、それらの経済も確保しなければならない。年間のスケジュールとかかる費用を計算し、レコード会社に提出した。アドバンスで食い繋ぐのである。その作業を2週間ほど行っている頃、1本の国際電話がかかってきた。
「まだ1曲も録れてないよ」
と、ぶっきらぼうに言う久保田麻琴さんの声が受話器の向こうからした。
「そんなことはないでしょう。こっちでリハしてから行ったのですから」
「新たにスタジオで、いちから曲作りをしているよ」
「全曲ですか?」
「そう、すでに14日間のスタジオ代とエンジニア代が無駄になっているから覚悟して」
「そうですか……」
「すぐに来て!」
ということで翌日にはサンフランシスコに飛んだ。とは言っても30そこそこの世間知らずの小僧がスタジオに出向いてバンドを諭しても、何が変わると言う事でもないのだが、とりあえずは金を持って行ったのである。それと、今後の経済について解決しつつある事柄を説明して、レコーディングに対する奮起を促すこととした。
「そうか、そっちも大変だったんだな」
なんて、冨士夫はまるで他人事のように言いながら、
「まぁ、とりあえずはゆっくりとしなよ」
とかなんとか、甘い言葉を吐き、まさに煙に巻かれるが如く大きく息を吸い込み、喉元で止めるのであった。
“だめだなぁ、オレは……”
なんて、ミイラ取りがミイラになっていく気分で翌朝を迎えると、嬉々とした佐瀬が待っていて、「シスコと言えば、ダーティ・ハリーだろ」とか言いながら映画のワン・シーンに登場した坂道に連れて行かれたり、いかにも高級そうな船上レストランで、フカヒレ・スープを奢らされたりしたのである。
その佐瀬がシスコから東京に帰った時、『じゃがたら』のアケミが亡くなったことで、奇しくもステージに復活するNobuとリンクすることになる。
そう、僕らが突然に江戸アケミの訃報を聞いたのは、そんなドタバタしていたサンフランシスコでの夜だった。まるで悪い夢でもみているような気分で、声もなくホテルのロビーに佇んでいたのを覚えているのだ……。
Funny Day from 『TEARDROPS / FUNNY DAYS -UNRELEASED AND RARITIES- DELUXE EDITION (CD+DVD)』
桑原延享/プロフィール
1962年東京まれ。20歳まで2〜3年ごとに引っ越しを繰り返して過ごす。16歳でバイク乗りになり、17歳で麿赤兒(まろあかじ)率いる『大駱駝艦』で舞踏・踊りの修行をする。19歳で映画『闇のカーニバル』主演男優に。同時に音楽を始め『ジャングルズ』のヴォーカリストになる。20歳のとき、子供が誕生するのをきっかけに、全ての表現活動から離れる。1990年、28歳で再びステージに上がり、江戸アケミの追悼コンサートに出演。その時のバンドが『JAZZY UPPER CUT』の原型となり、同バンドで4年ほど活動する。バイクの事故で入院・リハビリの時期を経て、再び本格的に音楽活動を始めたのは2003年、『Deep Count』と名付けた同バンドは、2024年の現在も続くリズムの中にある。
『いきなり“FOOLS”のいない“FOOLS”のステージに飛び入りする』
桑原延享/初めてトランペットを持ったのは中学の時でした。音は鳴ったけれど、まだまだちゃんと吹けない時点で、肝心のトランペットを失くした。それが中3の時だったのかな? 再び吹くことになるのは『大駱駝艦』を出て『闇のカーニバル』の撮影をしている頃。その頃に『FOOLS』のLIVEに飛び入りしたんです。『じゃがたら』と『FOOLS』がジョイントしているLIVEが『屋根裏』であって、俺はソレを観に行ったんですよ。そうしたら、『FOOLS』がやろうっていう段に、伊藤耕が銭湯に行ったまんま戻って来ない。耕はよくそういうことがあるんだけれど、この日もそうだった。で、『FOOLS』のLIVEが遅れに遅れて、代わりに良とマーチンがステージに上がって即興で演奏を始めたんですね。(良とマーチンはこの時点でまだ『FOOLS』には入っていなかった)そうしたらマーチンがドラムを叩きながら、「誰か歌う奴はいないのか?!」って叫ぶもんだから、俺は“キタ!”って感じでそのままステージに上がり、わけのわからない事をマイクで叫んだりしたんです(笑)。これがきっかけで俺は音楽の世界に行くことになるんです。その次に良と会ったのは法政(大学)の学館ホールでやっていたイベントの楽屋でした。その時の俺は観に行っただけだったんだけれど、良は『ジャングルズ』で出演することになっていて、その良からいきなり、「『ジャングルズ』に入らない?」って訊かれて、気がついたらその夜のステージにも飛び入ってました。そこから新たな一幕が始まるんですよね。
フールズ 「わけなんかないさ」
『 “ジャングルズ”で音楽のキャリアをスタートする』
桑原延享/俺が入ったときの『ジャングルズ』は、良(Gu)とアミ(Ba)とキヨシ(Dr)の3人組。『ジャングルズ』は、それまでもジャムセッションに近い形で活動しているバンドだったから、俺がボーカルで入っても違和感なく行けたのだと思う。でも、俺が入ってからの活動はそんなに長くはなかったですね。1、2年だったんじゃないかな。俺に子供ができたり、アミちゃんに子供ができたりしていく中で、活動そのものが緩慢になって行く過程で、良が『FOOLS』に入っていく。キヨシはジョージや川上がやっていた『自殺』に入って、結局は必然的に『ジャングルズ』は活動停止になっていったんだと思います。
Jungle's / Break Bottle(初期のジャングルズの音から)
『すべての表現活動をストップして家族のために働く』
桑原延享/そこで俺は表現活動そのものを止めることにしたんです。20 歳でした。子供が生まれたことで、仕事に専念し、会社員になりました。だけど、それは長続きしなかったですね。何年か経ったら嫌になって、イベント関係の大道具の職につくことにしました。これなら『大駱駝艦』でも経験していたし、売れないミュージシャンや演劇関係の人がたくさんいて、とてもやりやすかった。
その頃、俺が音楽をやめていた時期に、俺の心に響いていたのは冨士夫やマイルスでした。不思議なもんですよね、『じゃがたら』や『FOOLS』じゃなかったんだから。どうしてそうだったのか、うまくは言えないんだけど、たぶん、冨士夫が歌うフレーズの中に、当時の自分を信じさせてくれる言葉があったんだろうね。あとは俺の中に原風景としてのJAZZがあった。
錆びた扉 from『PRIVATE CASSETTE(2014 リマスター)』山口冨士夫
桑原延享/大道具という裏方の仕事に就いて8年くらい経った頃ですけど、’89年に『じゃがたら』の江戸アケミが突然に亡くなって、そのショッキングな出来事をキッカケに俺の動きも変化してきます。というのも、江戸アケミが亡くなる少し前に『大駱駝艦』で世話になった先輩が亡くなっていて、その人を追悼するイベントで俺はソロを踊ったんです。俺自身の表現活動の復活はその時だった。だから、’90年に日比谷の野音で行ったアケミの追悼の時には、すでに俺自身には勢いがついていたんですよ。“踊ってほしい”という、主催側からのオファーだったんだけれど、江戸アケミの追悼だったらバンドでやりたいっていう思いがあって、メンバーを集めたら、それが『JAZZY UPPER CUT/ジャジー・アッパー・カット』になったという訳なんです。
JAZZY UPPER CUT - DEATH TO THE WAR
■ここで冒頭のシーンに戻るのだが、2週間遅れでシスコに渡った僕を待ち望んでいたのは、なんといっても佐瀬だった。冨士夫やカズは必死に曲を作っていたし、“柳に風”の青ちゃんは、マイペースで『Funny Day』なる時間をおくっていた。だから、何をするでもない佐瀬は手持ち無沙汰だったのだろう。ダーティーハリーのロケ地をまわりたかったし、シスコの繁華街に繰り出してパブで一杯やりたかったのだ。船上レストランでフカヒレスープを味わう瞬間を心待ちにしていたのである。
それらはツアーに行く度にせがむ佐瀬の癖のようなものだった。京都では南禅寺の湯豆腐。神戸では神戸牛のステーキを所望した。行く先々の名物を堪能するので、この時も覚悟はできていた。だから、順番に思いを叶えていく日々だったのだが、そこに江戸アケミの訃報が飛び込んできたのであった。
『江戸アケミの訃報は自分のせいだと落ち込む佐瀬』
桑原延享/江戸アケミが亡くなったという事実は、俺たちが酒を呑んでいたりすると、どうしようもなく話題に上がることになる。確か、吉祥寺辺りで呑んでいたときに、良が佐瀬を呼んだんだよね。彼がアメリカから帰って来たところだったから。そうしたらさ、呑みに来た佐瀬が、
「実はアケミが死んだのは、俺のせいじゃないかと思っているんだ」
と、深妙な顔をして言うんだよね。
「えっ?! なんの話?」
って聞いてみたら、当時、佐瀬はアメリカに居てレコーディングをしていたんだけれど、なんかの雑誌でアケミがインタビューを受けている記事を見たんだって。その記事には清志郎が当時やっていた『タイマーズ』のことをアケミがもじって、
「奴らが『タイマーズ』なら、オレは『ガンジャー首相』だ!」
って、言い放っているのを見て、何故か気に食わなかったらしい。当時、清志郎は『TEARDROPS』と仲が良かったからね。それで、佐瀬はわざわざアケミにアメリカから国際電話をかけて文句を言ったのだとか。
「ふざけんな!」って。
そしたら、その直後に江戸アケミが亡くなったので、とても落ち込んでいるって言うんだよね。俺のせいじゃないかって。そんなはずないんだけど(笑)。すると、「そうだ! お前のせいだ!」って、何日も飲み続けている良が、佐瀬に食ってかかって責めまくる。その度に、もの凄く佐瀬が落ち込んでいくっていうシーンがあったなぁ(笑)。
でも・デモ・DEMO JAGATARA
JAGATARA(じゃがたら)_Hey Say_12th.Aug.1989@寿町
『江戸アケミの追悼で再び音楽を始める』
桑原延享/そんなわけで、日比谷野音で行われたアケミの追悼イベントで再びマイクの前に立つわけなんですけど、自分のスタイルがロック? パンク? レゲエ? なんだか、いまいちリアリティが持てない。俺は冨士夫みたいなロッカーではないし、耕やアケミみたいにも歌えない。それなら、俺にできることってなんだろう?って、『大駱駝艦』を辞めて子供を育てながら過ごしてきた時間の中に、それを見つけようと思ったわけなんです。すると、そこには俺なりにやってきた物語があって、それらの想いを言葉にすればいいんじゃないかって思い立つわけなんですよね。まぁ、その前から俺はリーディングみたいなマイク・パフォーマンスに興味があったんだけれど、ソレを基本にもうちょっと音楽的なところで何かできないかと思った時に、ラップというものがあったというわけです。
『自分なりのパフォーマンス・スタイルを模索する』
桑原延享/当時の俺は、とりあえず言いたいことだけはたくさんあったから、それを基にやっていこうと。ヒップホップのようなきちんと韻を踏むラップはできないかもしれないけれど、俺は俺なりのリズムやノリでやろうと思ったのです。スタイルを作るっていうよりも、コレは俺じゃなきゃ言えないだろうとか、物事に対してこういう角度から言えることもあるなって、俺なりに閃いたときなんか、それを言いたいとか、やってみたいとかの欲望の方が俺の中で強くなっていって、その連続がやり続けるスタイルになっていったのだと思います。
地下のパンクでもヒップホップでも、メジャーに行ける道はあるけれど、俺はそっちの方には進まなかった。っていうより、勝ち? を行く方向性に興味がなかったのかも知れないですね。俺は自分なりのスタイルを作ることが楽しくて、ごく自然にアングラ的な方向に向かっていきました。通ってきた来た道の続きかな…、ソレが必然だったのかもしれませんね。
『江戸アケミ追悼コンサート』には『桑原延享+石渡明廣+早川岳晴+角田健』名義で出演したのですが、ソレが『JAZZY UPPER CUT』の原型になりました。『JAZZY UPPER CUT』は’90年に活動を始めて、’92年にナツメグからアルバムをリリースして、’93年にワイルドパーティからLIVEアルバムをリリースしています。そして、94年に解散しています。
JAZZY UPPER CUT live at Quattro 1992/12/26
桑原延享/今年の4月に新宿LOFTで『JAZZY UPPER CUT』のCD復刻リリース記念のLIVEをしたんですけれど、内本順一さんという音楽ライターの人が、
“これが’90年代に活動を終えたバンドのLIVEなんて誰が信じるか! まさにこのバンドは今の時代の音楽の破壊力だ!”ってな感じでSNSなどに書いてくれて、嬉しく感じました。俺たちの音は今でも伝わるし、心に残ったんじゃないかなぁって、思えました。
『バンド“ギャンブル”の不完全燃焼、そしてバイク事故』
桑原延享/『JAZZY UPPER CUT』をやめた後は、『GAMBLE』っていうバンドを3〜4年くらいやったのかな。DJと言葉というヒップホップの要素に、ベースとギター、トランペットの生演奏を入れた変則的なスタイルのバンドです。“DJ KRUSH”とDJ HIDEと一緒に作ったんだけれど、(DJ KRUSHはこの後にヨーロッパ、アメリカに渡って大成功した)いまいち低空飛行な状態で終わってしまった。その直後に俺はバイクで事故を起こしたんです。人工関節にしなければならないような、けっこうな大事故で、入院してリハビリをし、全てをリセットするようなブランクがありました。
真夜中の王国 DJ KRUSH
DJ Krush – Kemuri
dj krush-slow chase (jazzy upper cut〜nobu:tp./samukawa:sax.fl./saito:key.)
dj krush-edge of blue (nobu:tp.)
『“DEEPCOUNT”誕生、そして単身New Yorkへ』
桑原延享/『DEEPCOUNT』は2000年に始めました。だけど、そのときは気持ちを持ち上げようにも、長い入院生活から復活した直後だったこともあって、腹にチカラが入らないし、何か定まらない状態だった。そんな時、ニューヨークにいる(ジャジー時代の)友達のところに行くことにしたんです。まぁ、気分転換なんですけれど、現地でセッションをしたいという気持ちもありました。でも、タイミングが凄かった。着いた翌日にあのテロが起きたんです。友達の家はクイーンズにあったんですけれど、着いた翌朝に時差ボケの頭でテレビを見ていたら、ワールドトレードセンターから煙が出ている映像が映し出されている。「何だろう? 映画かな」って最初は思いました。でも、音声がおかしい。ボソボソした英語が聞こえるだけですから、映画ではない。すると、友達の息子が、「父さん、大変だ!」ってリビングに飛んで来て、「ワールドトレードセンターに飛行機が突っ込んだよ!」って言うもんだから、これはリアルな映像なのか! って大騒ぎ。結局、この日からのニューヨークはテロで持ちきりで、マンハッタンには自由に渡れない。ほんとうはこの旅でジャマイカにも行く予定だったんですけれど、航空ルートが乱れていて叶いませんでした。でも、それにしてもとんでもない出来事を目の当たりにしましたね。JFK空港に着いた翌日に、ニューヨークのシンボルであるワールドトレードセンターが無くなったんですから。
【映画】ワールド・トレード・センター 予告
『“DEEPCOUNT”の活動を本格的にする』
桑原延享/帰国して少し経った頃、江戸アケミ13回忌イベントの出演が決まって、そのリハに入ったころから『DEEPCOUNT』がだんだん良い感じになってきて、そのままの勢いでLIVEをやったら、バッチリでした。俺自身にとっても、この日のステージが浮力をつかんだ瞬間だった気がしています。このステージで9.11の体験をリーディングに絡めたりしました。それが2003年ですね。『DEEPCOUNT』は、この時から何かを掴みました。
『DEEPCOUNT』の初期のメンバーは、ギターが良(川田良)で、ドラムが石渡(石渡明廣)でした。それと“DJ HIDE”が参加しています。今はターンテーブリストはいなくて、ベースは変わらず有川太、ギターがSUGURU、ドラムが福島紀明ですね。
RUMI feat. DEEPCOUNT 「白地図」20111026 降りしきる夜
桑原延享/振り返ると俺の場合は『大駱駝艦』にいた経緯から、JAZZ系の知り合いも多くて、ロックとの融合は必然だっていうか、まぁ、やりたい事につなげる幅を広げることが出来た気がします。でも、『ジャジー』の時に、良に、妙な芝居っ気をバンドに持ち込むなよってよく言われました。俺はそんなつもりはないんだけれど、何かが出ちゃうんだよね。自己表現として。こればかりは仕方ない。
『ちょっと気になる譜面台との葛藤』
桑原延享/ステージで譜面を見ることはしたくないんだけれど、ちゃんと言葉を伝えたいという思いもあって、ついつい見ちゃうんだよね。まぁ、見ないでやれば少しは客が増えるかな、って思うんだけれど、最近では開き直って見ることも多い(笑)。ポンって言葉が飛んじゃったり、何年もやっている歌詞が混ざる瞬間があるんです。客を垣間見ると、俺が譜面台を見ていることに対して、明らかに白けている人が居る事も知っているんだけれどね(笑)。まぁ、そこから逃げるわけでもないんですけど、閃いた言葉を正確に伝えたいという思いの方が勝るんだよね。それこそ、リーディングなんかだと、前日に作った詩なんかはノートに書いて、それを持ちながらやってもいいくらいの気持ちもある。でも、なるべくは譜面台から目をそらせて歌いたいとも思っているんだ。
DEEPCOUNT - Note of Okinawa MV
桑原延享/ジョージ(藻の月)も譜面台を見るよね。あれはたぶん俺のせいだな。俺が譜面台を見ているのを見て、「いいじゃん、やっぱ見ないとわからなくなる時があるよな」って言っていた時があるから(笑)。ジョージとは何回も譜面台談議をしたことがある。たまに一緒になると、「ジョージ、今日はあまり譜面台を見てなかったな、その方がいいよ」なんて言っている自分が居て、我ながらびっくりするよ(笑)。
『詩を書く時の意識』
桑原延享/俺が詩を書く時に意識するのは、見つけた言葉の効力です。先ずは自分に効かないと相手には渡らない。裏から見たりひっくり返したり、組み合わせを試したり、瞬間の効力か?長持ちするか? あと効きか? どう働くか? 自分に問いかけながら書いています。歳をとると多角度な景色を抱えたりで時間を喰ってしまうけど、若い頃には言えなかったことも平気になる。それは多分、若い人たちの間にはない言葉だったりするかもしれない。それを試してみるのも面白い。若い人に向かって表現もする。同年代や年上の人に伝わらないと意味がない。みんな忙しいからね。なかなか来てくれない。若い人たちも年寄りも彼らのシーンがあるから、興味を持って何回か連続して来てくれても、「しばらく来ないかもな」って、俺らが思うと、ほんとうにそうなるんだよね。でも、それは当たり前の話だと思います。みんなに大切な時間が流れているんだから。
DEEPCOUNT "On The Runway" December 21, 2019
『未来について考えること』
桑原延享/振り返ると俺は、音メインで食っていこうっていう考え方を外して、音楽をやってきた気がします。でも、それは決して恥ずかしいことではないし、音楽が好きだし、生き甲斐でもある。今後もやり甲斐のある面白いLIVEを創っていきたいと思っています。単純に、音好きな人が見たがる、聴きたがる演奏をしたいですね。この前、LOFTでやった『JAZZY UPPER CUT』は、久し振りということもあって、たくさんの人が来てくれたけれど、『DEEPCOUNT』の現実はそうもいかない。コロナでずっと止まっていたのが、やっと去年から動き出したところだから、まぁ、これからなんだけれどね。
今年は、『ジャングルズ』『TEIYU CONNECTIONS:じゃがたら曲』『JAZZY UPPER CUT』とイレギュラーなイベントが続いて、嬉しい疲労がありますけど(笑)。でも、意外というか、良かったのは、古い事をやってみると、逆に新しい発見っていうか、今まで気づけなかったことに気がついたような気がします。例えば、同じフレーズを4回繰り返したときに、3回目だけピッチを上げる(普通か?w)ということが、ごく自然にできるようになったことに気がつく。新しいことをやろうとしているばかりでなく、古いことを思い出してやってみると、古い自分が教えてくれる新しい発見あるんですよね。
あと、ここ数年機会があり江戸アケミや伊藤耕、山口冨士夫、彼らの歌を歌ってみたら、“ああ、ここで息継ぎをしているのか”とか、そういう感覚がわかって、友達の息遣いで新しい発見をしたというか、それも良い経験になりました。
今後のビジョンですか? そうですね、『DEEPCOUNT』の新しいアルバムを作りたいです。具体的に曲も溜まっているし、再びアナログで出したいです。来年には是非とも完成したいですね。
今この時代に響かせる音と言葉を未来に渡らせたい。聴いた未来の誰かが、「このオッサン面白いじゃん」っていつか言ってくれるといいな。まぁ、未来のはみ出し者たちっていうか、不良少年少女たちが“自分を格好良くする”ための滑走路として役に立てばいいな。と思っているんですけどね(笑)。
DEEPCOUNT "戯れ言"
(第14話『Nobu/桑原延享(Kuwabara Nobutaka)音と共に生きていく』終わり。第15話『ジョージとハリー/魂の兄弟』に続く)
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●カスヤトシアキ(粕谷利昭)
1955年東京生まれ。桑沢デザイン研究所卒業。イラストレーターとして社会に出たとたんに子供が生まれ、就職して広告デザイナーになる。デザイナーとして頑張ろうとした矢先に、山口冨士夫と知り合いマネージャーとなった。なりふり構わず出版も経験し、友人と出版会社を設立したが、デジタルの津波にのみこまれ、流れ着いた離島で再び冨士夫と再会した。冨士夫亡き後、小さくクリエイティブしているところにジョージとの縁ができる。『藻の月』を眺めると落ち着く自分を知ったのが最近のこと。一緒に眺めてはどうかと世間に問いかけているところである。
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■INFORMATION
JAZZY UPPER CUTの復刻2枚組CD、ユニオン特典も決定!
ピースミュージック中村さんのリマスターで迫力の音像になりました。ノブさん、寒川さん、サミー前田氏のライナーノーツも掲載。
5月22日発売!JAZZY UPPER CUT『1992 Revisited』
90年代前半に活動し、パンク、ヒップホップ、ジャズ、ファンク、ノイズ等々を偶発的に昇華させた、東京のアンダーグラウンド・ロックの最高峰とも言えるJAZZY UPPER CUTが残した作品が復刻!
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7/24 wed. "降りしきる夜"
at 高円寺SHOWBOAT
●Blackor ●EIEFITS ●DEEPCOUNT
Froor dj:ENAN
OPEN 19:00・START 19:30
前売¥2500・当日¥2800 ➕1D
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8/23 fri. at 国立/地球屋
●THE DEAD PAN SPEAKERS ●DEEPCOUNT
Dj : 火男
OPEN 19:00・START 20:00
前売¥2500・当日¥3000 ➕1D
(タイトルとフライヤーは作成中)
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■MONOTSUKI INFORMATION
8月4日(日曜日)
テンキューベリーマッチ 小山耕太郎 vol.7
OPEN 15:00・START 15:30
前売¥2300・当日¥2500 (別途ドリンク代¥500)
●藻の月●Saybow & the R+X+S●aka-jamジャングル+内藤幸也
●marron aka dubmarronics + 田畑満+JUICY
●The Ding-A-Lings ●KAGEFUMIX 野ロヤスツグ key(ex町田町蔵+北澤組) , ENZO ds , 烏賀陽弘道 b , 中里つよし g
DJ:Higo DJ:Era
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9/7(土)国立・地球屋
●藻の月 ●新月灯花
OPEN 19:00・START 19:30
¥2000 (別途ドリンク代)
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10/6(日)大阪/クラブ・ウォーター
●藻の月●The Up & Down Trips ●LOVED LOVED ●りんどう
OPEN 17:30・START 18:00
¥2500 (別途ドリンク代¥500)
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10/26(土)GT LIVE TOKYO 六本木
●ダニー井野 ●藻の月
※詳細は後日発表いたします。
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10/27(日)ShouBoat 高円寺
※詳細は後日発表いたします。
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GoodLovin'Production
『村八分』1972 三田祭 LPレコード
初のアナログ化!8月28日発売予定
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5月15日リリース【山口冨士夫 / REAL LIVE 1983】
テンプテーションズのカバー“My Girl“を本日公開しました🌪