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そこに佇む、時の遺構|11792文字
現代社会における共感の欠如とその問題
時折、日常の中で人々の表情や声が奇妙に遠く感じる瞬間がある。
渋谷の街を歩くとき、どこかの郊外を歩くとき、電車やバスの中でも、互いに目を合わせないままスクリーンに視線を落とす人の姿が僕の目によく映る。
SNSやメディアが急速に発展している中、どこかの他人や、顔は知っているけど親しくない人(大学では、「よっ友」といわれる関係もある)の生活に触れているかのような錯覚が増えている現代ですが、意外とそこには表面的な「いいね」や短いメッセージのやり取りだけではなく、相手の内面にまで触れ、共感や理解が積み重なることで、互いに安心感や信頼感を築けるような”繋がり”が欠けているのではないでしょうか。
この数十年間で、私たちが情報を受け取る速度は圧倒的に加速しています。
SNSでは人々の感情の吐露が次から次へと流れてきますが、それらの情報は瞬時に消え去り、そこには「一時的なつながり」だけが残ります。
目の前で会話を交わし、相手の表情や声のトーンを通して感情を感じ取るような「リアルな共感」の時間が奪われ、私たちは繋がっているようでいて、実際にはどこかでつながり切れていない”不安感”を抱えているのです。
それはまるで、薄いフィルムを隔てた向こうに人がいるような、触れられそうで触れられない距離感です。
こうした一瞬のつながりを心地よくも不安にも感じるのは、やはり深いところで「つながり」の本質を求めているからなのかもしれません。
そして、表面的な「いいね」やシェアではなく、自分と他者が互いに理解し合える時間が必要だと感じています。
▼このテーマについて、より深く考えたい方は、以下のnote記事に記された視点もぜひご覧ください。人々がどのようにして共感を喪失し、またどのようにして取り戻すべきかのヒントを与えてくれます。
このような共感の欠如は、僕たちに無意識のうちに孤独感や疎外感をもたらしています。
隣の人が何を考えているのか、なぜ微笑んでいるのかが分からない、また自分の感情が誰にも共有されていないという感覚が蓄積されると、やがて「自分は他者から隔絶されている」という孤立感に陥りやすくなります。
これは、社会学者の宮台真司さんが指摘するように、日本の社会が「個人の価値観」ではなく「集団の空気感」に依存している背景にも関係しているのだと思います。
彼は、日本社会には「空気に従う」傾向が強く、個々の感情や価値観よりも周囲の反応や期待に適応することが重視されていると指摘しています。
この結果、表面的なつながりや共感が優先され、他者と深い部分で結びつく機会が失われてしまうのです。
社会全体に目を向けると、孤立や不信感が次第に広がっている現状が浮かび上がります。SNSやメディアの発達によって多様な意見が跋扈し、個々人が異なる価値観を目の当たりにする機会が増えている。
それは、yahooのニュースのコメントやX(旧:twitter)でのコメントを想像してもらうと分かりやすいと思います。
一方で、僕らは「他人の考えや価値観が理解できない」という感覚を強く抱きやすい傾向になってきています。
異なる意見に触れることが必ずしも理解や共感を生むわけではなく、むしろ「自分と異なる」存在を”不安”や”警戒”の対象とすることも多くなります。
このような状況は、宮台氏が指摘するように、「空気を読む文化」が無意識に形成され、異なる意見を表面上は受け入れながらも深い理解には至らない傾向が強まる結果につながっています。
また、デジタルメディアの進化は一方で「効率」を重視する風潮を生み出しました。
Z世代は特に略して、タイパと呼ばれる”タイムパフォーマンス”を重視し、短時間で必要な情報を得る手段を求める傾向がありますが、これは情報収集に関しては効率的である一方で、対話や感情の共有に対する関心の減少故の他者との関係性を希薄にする可能性があります。
社会が急速に利益追求、利便性・効率を追求する中で、僕らが他者の話に耳を傾け、共感する余裕が失われつつあるのではないでしょうか?
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