ふわっと。雲と。夢と。|10158文字
「絶え間なく広がる鏡の迷路を生きる。」
こんなふうに想像してみると、まさに現代社会を映し出している感じが見えてきます。
鏡の中に次々と映る自分の姿が、まるで情報や価値観の反射で形を変えていくように見えて、何が本当の「自分」なのか、どの方向に向かうべきなのか、迷ってしまうことも多いです。一歩踏み出すたびに少し違った景色が見えてくるけれど、その一方でいつも同じ場所をぐるぐる回っているような感覚がつきまとう…。そんなふうに感じることはないでしょうか?
このようにアイデンティティや自分らしさとかが分からなくなる時に、実は「オートポイエーシス」と「アロポイエーシス」という二つのシステムの考え方が、自己と他者との関係を考え直すきっかけになるかもしれません。
初めに、オートポイエーシスというのは「自分で自分を作り出す」システムです。
これは、生命体が自分の体に必要なものを自分の内側で生み出しながら、自己を保っていくような仕組みのこと。
これを例えると、単細胞生物は自分に必要な要素をすべて細胞の中で作り出しながら生きています。
人間的にみると、”自給自足”的な感じがあって、まるで自分一人で生活していけることや生きていけるというような自立した生き方を指しているようにも思えます。
反対に、アロポイエーシスは「他から与えられた目的をこなしていく」システム。
例えば、工場の生産プロセスを想像してみてください。
その目的は製品を作ることにありますが、ここで使われているエネルギーや原材料はすべて外部から来ていて、その目的も工場が自分で決めているわけではないんです。
オートポイエーシスが「自分をつくる」なら、アロポイエーシスは「他から与えられた役割を果たす」みたいなものかなと思います。
こうして考えると、オートポイエーシスとアロポイエーシスの違いは、「自己完結か他からの要求か」という点にあると言えます。
意識していなくても、僕たちも日々この両方のバランスをとったり、調整しながら生活している気がします。
時に、自分の内面に従って動き(オートポイエーシス的)、またあるときは周りの期待に応えるように(アロポイエーシス的)生活している。
このバランスが、今の社会を生きる上で大切なことなのだと思います。
これはその時その時に対応できるくらいの強度も必要とします。
なら、この二つのシステムがどう私たちの生活に役立つだろうか?
生物学的/社会的オートポイエーシス
「オートポイエーシス」
先述したことを、生物学的にいうと「細胞が自分を維持し続ける働き」のことなんです。
これは、細胞が自分で自分に必要なものを作り出しながら、生き続けるための工夫をしている。というイメージ。
例えば、細胞膜は外からエネルギーや栄養素を取り込みつつも、必要のないものや老廃物は排出して、あくまで自分を守るための仕組みを維持している。
そして、細胞の中のミトコンドリアとかゴルジ体などの小さな器官たちも、それぞれ役割を担いながら、全体としては一つの細胞の安定を支えている。
また、オートポイエーシスの考え方は社会にも当てるのかなと感じます。
社会という観点でのオートポイエーシスは、「自分の中で自分たちの価値観や目的を作り上げ、守り続けていく」という意味です。
大学のサークル活動や集団での活動。
みんなが集まって、お互いの意見を聞きながら「その団体として、サークルとしてどういう方向に進めていくか?どういう目的に向かって進めるのか?」とか、
「どんなルールでやっていこうか?」を話し合って決めていく。
この活動方針やルールを、外から押し付けられるわけじゃなく、自分たちの中で作って運営しているのは、まさに社会的なオートポイエーシスの例です。
また、企業やNPOでも、自分たちが掲げるミッションやビジョンを元に、外部からの影響を受けながらも活動方針をインプルーヴしていく。
これは、外からの指示だけで動いているわけじゃなく、自分たちの価値観や目的を軸にして活動を続けるプロセスで、これも社会的オートポイエーシスとして考えられるなぁと思います。
すごく関心が向いたのは、生物学的なオートポイエーシスと社会的なオートポイエーシスには、似ている部分もあれば違う部分もあるということ。
どちらも共通項としての「自己を産出していく」という点では似ているけど、細胞が”物理”・”化学”的なプロセスに支えられているのに対して、社会的なオートポイエーシスは人々の意志や価値観、そして文化や伝統みたいな抽象的な要素に大きく依存しています。
ある組織がその内部で自律的、自発的に動きつつ、全体のビジョンを共有している場合、その方向性や方針は内部の価値観によって成り立っていますが、細胞の自己維持に比べて社会的な要因が強く絡んでいる。
こうして、社会的オートポイエーシスは色々な価値観や意図が混在して、最終的に一つのまとまりとして成り立っている。
細胞が内側に閉じた自己維持の現象なのに対し、社会的なオートポイエーシスは、他者や外部の価値観と常に交わり、影響しながら進行する点が特徴です。
そう考えると、社会的な意味合いでのオートポイエーシスは、それぞれ異なる価値観や役割を持つ人々が共存し、協力してシステムを形作っていくものなんだなと感じます。
構成要素の産出関係と秩序の軸
生命体が自己を維持するために構成要素を生み出し続けることは、そのシステムが安定して機能するために欠かせないプロセスです。
例えば、細胞が細胞膜を形成し、その内部でタンパク質やエネルギー分子、酵素などの必要な物質を次々に合成して、内部の反応を継続させているように、システム全体も絶えず新しい要素を生み出しながら秩序を維持しています。
この秩序がなければ、システムは崩壊し、自己維持が困難になります。
職場で新しいプロジェクトが始まる場面も似ています。メンバーそれぞれに役割や目標が適切に設定され、自分のポジションを意識して進めることで、プロジェクトは秩序立って進行していきます。
ここで大事なのが「秩序の軸」で、構成要素が互いに結びつき、協力し合うためのルールや目的として機能しています。
家族の中でも、例えば子供が学校生活で人間関係や勉強の悩みを抱えているとき、親が話を聞いたり、兄弟や姉妹が勉強を手伝ったりすることがあります。
こうした助け合いを通して、子供が自信を回復し、家族全体が安心できる場としての「秩序」を保つのです。
家族内のサポートや役割分担が循環することで、家庭というシステムもバランスを保ちながら機能し続けるわけです。
友人関係もまた、オートポイエーシスのプロセスが日常的に見られるシーンです。
お互いに相談に乗り合うことで、相談役やアドバイザーのような役割を自然に果たす関係ができていることがあります。
こうした役割分担が日常的に行われることで、友人関係の秩序が維持され、お互いを成長させるプロセスにもなっています。
このパートにおける構成要素と秩序は、システムの維持と安定のための”役割分担”や”協力”が重要になります。
社会的オートポイエーシスの実践例と構成要素・秩序の違い
社会的オートポイエーシスは、生物的なものとは異なる特徴を持っています。
生物のシステムでは、細胞や器官が自己維持のための役割を果たしていますが、社会的なシステムでは個人や集団がそれぞれの価値観や目的に基づきながら、全体のシステムを作り出しています。
大学のサークル活動はその代表例です。
メンバーが自発的に役割を分担し、それぞれの目標に向かって活動を続けていくことでサークル全体が自己維持をしているわけです。
また、NPOや地域コミュニティの活動も、社会的オートポイエーシスの良い例だと言えます。
このように、社会的オートポイエーシスは生物学的なものとは異なり、個々の目的や価値観が相互に補完し合いながらシステムが成り立っているという点が特徴です。
社会的オートポイエーシスの実践
大学生の生活におけるオートポイエーシス
大学においてもオートポイエーシスの要素があります。
僕自身の体験として、感情のキャパシティ(capacity)や能力。
この感情的能力を培うための教育としてもあるのかなと感じています。
その中で最も大事なこととしてカオスを耐える。所謂混沌を耐えうるということ、
もっと簡単な解釈でいくと、自分の意見がある。その中で多様な意見を受け入れるということです。
この部分で大学生という中では、自分たちの高校までに培ってたモラル的な事や、当たり前だと思っていたこと。それらを裏切る体験が少なからずあると思います。
また、感情的な能力は人をつなぐ意味合いが含まれると感じています。
その中で、そのカオスを耐えるという行為によって生まれてくる感情は必ずあります。
その感情を大事にしながら、人に共感する。話す。
その行為こそが、オートポイエーシスの機能であり、そして能動的にも発露していくものなのかなと思います。
一方、こうした感情の醸成が、オートポイエーシスのプロセスにおいて重要なのは、単に自分の意見を持つことにとどまらず、それを他者の意見や異なる視点と並行させながらも自分の価値観をより広げることにある。
つまり、意見を持ちながらも柔軟であること。
他者の存在によって自分を支えつつ、自己の中心は自分が守る、そのようなスタンスが大学という空間で形成されていきます。
▼下記は、大学生におけるオートポイエーシスの特徴を言語したものです。
まとめ
大学に入り、広い世界に足を踏み入れたとき、自分がなにをしたいか。なにを身に着けているのか。そして、他者との関係性について考えざるを得ない瞬間が増えたように感じる。
自分の意見をはっきりと言う場面、他者と協力しながら一つの目標に向かって努力する場面、何より、性別、価値観や話す言語が違う人同士交わる瞬間。
このとき、僕たちは「オートポイエーシス」と「アロポイエーシス」のこの二つが、波間に揺れる小舟のように働きかけているのを潜在的のうちに感受しているのかもしれない。
オートポイエーシスは、自分で自分を作り上げ、維持していくシステムを意味する。
一方で、アロポイエーシスは外部から与えられた目的に従って物事を生み出すプロセスである。
僕たちの日常の中でも、この2つは噛み合いながら回転する歯車のように存在し、他者の影響を受けながらも自己を維持する瞬間と、外部の期待に応じる瞬間が繰り返される。
どちらか一方だけが自分を形作るわけではなく、その間で揺れ動く中に、人間らしさが表出しているように感じる。
「環世界」という考え方がある。
環世界とは、生物学者ユクスキュルが提唱した概念であり、「すべての生物が各々の感覚に基づいた独自の世界を持ち、その世界は客観的ではなく主体的に構築される」というものだ。
ミツバチを例に取ると、彼らが認識する世界は花の蜜のみで構成されており、花の茎や葉といった要素には意味を見出していないという。
僕たちもまた、自分自身にとって「意味がある」と感じるものだけを重要視し、自分だけの「環世界」を作り上げているのだと思う。
この「環世界」の考え方は、他者とのコミュニケーションに大きな示唆を与えてくれる。僕たち一人ひとりが異なる環世界を持つため、話がすれ違うことや、自分の話が相手に伝わらないことがある。
しかし、このすれ違いがあるからこそ、オートポイエーシス的に自分の世界を深め、またアロポイエーシス的に他者の視点を受け入れる意義が生まれる。
例えば、友人と意見が対立したとき、自分の考えをはっきりと持ちながらも、相手の環世界に一歩踏み入れて理解しようとする。この調律こそが、コミュニケーションの土台だと感じる。
一方で、環世界の違いを前提に、相手の視点を積極的に引き寄せる方法もある。
就職活動の面接や初対面の人との会話など、短時間で自分を理解してもらう必要があるとき、相手にとって意味ある情報として自分を伝えることが重要になる。自分にとって重要な価値観や特性を、相手に注目してもらえる形で話すことが求められるのだ。
具体的には、会話の冒頭で「私にとって大切なのは挑戦する力です」と一言で示すことで、相手はそのワードに基づいて僕の話を理解しようとするだろう。
このとき、自分の環世界を相手に伝えることで、相手の環世界と少しでも交わる瞬間が生まれる。
しかし、こうして「他者に伝える」ことを意識する一方で、自分の環世界に他者を招き入れることばかりではなく、相手の環世界に自分が寄り添うことも必要だと感じる。
自分が重要だと考えることが、必ずしも相手にとって同じ価値を持つとは限らないため、相手が何に意味を感じ、何を重要視しているのかを見極めながら言葉を選ぶことで、相互理解が深まる。相手の環世界に寄り添いながらも、自分の軸を失わないようにすることが、オートポイエーシスとアロポイエーシスのバランスを取るカギなのだと思う。
こうした他者との交流は、もちろんメリットとデメリットの両方を含んでいる。メリットとしては、他者の視点を通じて自分を再評価できることだ。自分では見過ごしていた強みや価値観に気づき、オートポイエーシス的に自己を深める機会が生まれる。
また、他者とのつながりを通じて、アロポイエーシス的な役割や責任を果たし、社会的な一員としての自覚が芽生えるのも、他者との関わりを持つメリットだと言える。
一方で、他者に自分を伝えることに囚われすぎてしまうと、自分の価値観がブレたり、相手に合わせすぎて自己を見失うリスクもある。
これは、アロポイエーシス的に他者の要求に応えようとするあまり、オートポイエーシス的な自己の軸を失うというデメリットと言えるかもしれない。
また、他者との意見や価値観の違いに直面したとき、そこにストレスや摩擦が生じることもある。特に、相手が自分と全く異なる環世界に生きているとき、その理解の差はさらに大きなものとなり得る。
こうしたメリットとデメリットを理解した上で、僕たちに求められるのは、他者との関わりの中で鬱々とせずに自分から動き出す姿勢だと思う。
環世界の違いに直面したとき、ただ理解しようと努めるだけでなく、行動を通じて相手と信頼関係を築いていく。
お互いの環世界の中で信頼を育むことで、会話の齟齬が生まれても、そのズレを楽しみながら学んでいける余裕が生まれるのではないだろうか。
最後に、僕たちが忘れてはならないのは、他者を信じるという行為そのものである。
異なる環世界に生きている以上、完全に理解し合うことは不可能かもしれないが、それでも歩み寄り、共感を見出そうとする努力こそが、オートポイエーシスとアロポイエーシスを融合させたコミュニケーションの真髄なのだろう。他者の視点を受け入れ、自分を持ちながら他者に寄り添うことで、より豊かな人間関係を築くことができる。
オートポイエーシスとアロポイエーシスの間で揺れ動きながら、環世界の違いを理解し、他者を信じて行動する。
僕たち大学生にとって、こうしたプロセスを通じて得られるものは大きく、その一歩一歩が自分の成長とつながっているのだと信じている。
対話
大学生A: 最近、授業でオートポイエーシスとアロポイエーシスについて学んだんだけど、まだよく理解できてなくてさ。これって、どう人間らしさに関わるのか考え始めてるんだ。どちらが「より人間らしい」形なのか、君の意見を聞きたい。
大学生B: 確かに難しいテーマだよね。オートポイエーシスって自己生成、自己維持のシステムで、生命が自律的に自分を作り出し、維持するものだよね。一方で、アロポイエーシスは、外部からの入力や影響を受けて何かを生成すること。で、人間らしさを考えるなら、オートポイエーシスの自己完結性が独自性を強調するところが「人間らしい」って思わない?
大学生A: なるほど、自分で自分を形成する点で、確かにオートポイエーシスは「人間の自立性」を象徴してるかも。でもさ、アロポイエーシスも興味深いよ。人間って常に外部の影響を受けて成長していく存在じゃない?教育とか他者との関わりを通じて、自分を作っていく面ではアロポイエーシス的な要素も無視できない気がする。
大学生B: 確かに。人間は他者との相互作用を通じて成長していくし、外部からの刺激や情報がなければ発展も限られる。そう考えると、アロポイエーシス的な側面も必要不可欠だね。でも、ここで重要なのは、オートポイエーシスが「内部から生まれる自律性」を強調しているところ。自己認識や自分自身の価値を見出すプロセスは、他人が決めるものじゃなくて、最終的には自分が決めることだよね。
大学生A: そうだね。自律性の部分はオートポイエーシスの大きな強みだと思う。でも、完全に外部からの影響を断っては生きられないのも事実で、アロポイエーシス的な「他者との関わり」も人間らしさには必要な要素だと思う。自分だけの力で全てを解決できるわけじゃないし、支え合うことで成長できる部分も多い。
大学生B: だから、完全にどちらか一方が「人間らしい」と言えるわけじゃなく、両方が人間らしさに貢献しているってことだよね。オートポイエーシスは自己認識や自律性、個体性を象徴していて、アロポイエーシスは相互作用や他者からの学びを示している。結局、人間ってその両方を行き来しながら成長していく存在なんじゃない?
大学生A: そうだね。オートポイエーシスは、内面の強さや自分自身との向き合いを表現していて、アロポイエーシスは、社会的つながりや他者との関わりを通じての成長を示している。それぞれに強みと弱みがあるけど、人間らしさって、そのバランスにあるのかもしれない。自分を持ちつつ、他者との関係を築いていくってことかな。
大学生B: そのバランスが「人間らしさ」だね。自己完結だけじゃなく、他者とつながり、外部からも影響を受けて変化し続ける。そう考えると、人間って常にオートポイエーシスとアロポイエーシスの狭間で揺れ動いている存在なのかも。どちらかに偏りすぎても、うまくいかないってことだね。
大学生A: うん、そうだね。だから、内面的な自律性と、外部との関わりをどうバランスよく保つかが、人間としての成長のカギなんだと思うよ。
大学生A: さっき言った「人間って常にオートポイエーシスとアロポイエーシスの狭間で揺れ動いている存在」って、どうやってその意味を理解していけるんだろう?実際の生活や経験の中で、それをどう実感できるのか、もっと深く考えてみたいんだ。
大学生B: 確かに、それを意識的に理解していくのって難しいよね。でも、たとえば日常生活の中で、自分で何かを決めるときと、他者や環境から影響を受けて変わるときを意識してみると、オートポイエーシスとアロポイエーシスの間で揺れ動いている感覚がわかってくるかもしれない。
大学生A: 具体的な例を考えると分かりやすいかもね。たとえば、大学での勉強やキャリア選択について考えてみると、自分の内なる意志で進路を選ぼうとする場面と、友人や先生、家族の意見に影響される場面があるよね。このとき、オートポイエーシス的には自分の意思で決断したいけど、アロポイエーシス的には周囲からの影響を無視するのは難しい。
大学生B: そうだね。自分の選択肢を完全に自分でコントロールしていると思っていても、実際は他者との対話や環境からの情報に支えられていることが多い。だから、どちらか一方だけに頼るとバランスが崩れるし、逆にどちらも受け入れつつ、その狭間で揺れ動くことが成長につながるんだと思う。
大学生A: なるほど。それは「自己の成長=オートポイエーシス」だけど、その成長の触媒として「他者の影響=アロポイエーシス」が不可欠ってことかも。人間は自分だけでは完全には成り立たないし、他者との関わりを通して初めて自己が形成されていくってことだよね。
大学生B: そうだね。例えば、失敗を通じて学ぶ場面でも、自分の内なる反省と外部のフィードバックの両方が大事だよね。内面で自分をどう成長させるかはオートポイエーシス的な部分だけど、そのプロセスを他者との関わりや環境から学び、改善していくのはアロポイエーシス的な側面が大きい。
大学生A: そう考えると、私たちが何かに挑戦するときって、常にこの二つの間でバランスを取りながら進んでいるんだね。完全に自分の意志だけで突き進むわけでもないし、他者にすべて依存するわけでもない。その両者の相互作用が、より「人間らしい」プロセスを生んでいるんだ。
大学生B: うん、それに気づくことが重要だと思う。自己の成長や意思決定が、常に他者や環境と相互作用していることを意識すると、自分の行動や選択にもより柔軟に対応できるんじゃないかな。内的な強さと外的なつながり、両方を意識して取り入れることで、よりバランスの取れた人間らしさを感じることができると思う。
大学生A: その通りだね。結局、人間らしさっていうのは、自己の内面と外部の世界との関係性に気づいて、その二つをどう調和させるかにかかっているのかもしれないね。それがオートポイエーシスとアロポイエーシスの狭間で揺れ動くっていうことなんだろうな。
大学生B: うん。その揺れ動き自体が、「人間らしい生き方」を形成しているんだと思う。常に固定された答えがあるわけじゃなく、その都度、自己と他者のバランスを取りながら進んでいく。このプロセスを意識することで、より豊かな人間らしい成長ができるんじゃないかな。
大学生A: 確かに、変化や揺れ動きを受け入れつつ、それを成長の糧にしていくのが本当の意味での人間らしさなのかもね。
大学生A: 人間らしさをこうして言語化していくと、実際にその「人間らしさ」をどう定義すればいいのか、すごく難しく感じるんだよね。揺れ動きがあるとか、自己と他者の関係性の中にあるっていうことはわかるけど、それを完全に表現できるかどうかは、まだ不確実な感じがする。
大学生B: うん、確かに。それは言葉で完全に言い表せるものじゃない部分があるんだよね。言語化するとどうしても固定的な概念にしてしまいがちだけど、人間らしさって、もっと流動的で、時には矛盾するような状態でもあると思う。だから、言語の限界を感じる部分もあるよね。
大学生A: その「流動的で矛盾する」ってところがポイントかもね。人間らしさって、すべてが理性的で筋が通っているわけじゃなくて、感情的だったり、直感的だったり、自己矛盾に陥ったりすることもある。だから、言葉で説明しようとすると、どうしてもその複雑さを捉えきれない。
大学生B: うん。言語化の可能性と不可能性がここに出てくるよね。言葉によってある程度、人間らしさの輪郭を描くことはできるけど、それが全体を捉えるわけではない。それでも、言語化することで私たちの理解は深まるし、他者と共有できるものも増えていく。だから、言語化には価値があるけど、言葉だけに頼りすぎるのは危険かもしれない。
大学生A: 確かにね。言葉で捉えきれない部分があるからこそ、言語化の限界を認識しつつ、その先にある「感じること」とか「経験すること」を大切にする必要があるのかも。例えば、友情や愛情、共感みたいなものは、言葉で表現しても、それを実際に感じることでしか本当の意味では理解できない部分があるしね。
大学生B: そうだね。その「感じること」や「経験すること」が、結局は自分たちの実体に繋がっていくんだと思う。オートポイエーシス的に、自分の中で自己を形成していくプロセスがある一方で、アロポイエーシス的に他者や環境から影響を受けて変化していく。それが、私たちの「実体」を作っていくんじゃないかな。
大学生A: つまり、言語での定義だけじゃなくて、実際に生きるプロセスそのものが、自分たちの実体を形作るってことだよね。自分がどう感じ、どう関わり、どう成長するかが、言葉以上に自分たちを表現している。
大学生B: その通りだね。だから、「人間らしさ」を追求するためには、言葉での思考だけじゃなくて、実際に行動し、経験し、揺れ動きの中で自分を見つめ直すことが重要なんだと思う。人間って、常に完成形じゃなく、常に何かを探し、作り直していく存在なんだよね。
大学生A: うん、それってまさにオートポイエーシスの考え方に通じるよね。自分で自分を作り続ける存在というか。でも、その過程で他者との関係性や外部からの刺激を受け入れながら、自分を再定義していくことが、より人間らしい「実体」へとつながるんだろうね。
大学生B: そうだね。だから、揺れ動きや矛盾、言語化できない感情や経験を通じて、私たちは「人間らしさ」を少しずつ理解し、形にしていくんだと思う。そのプロセスこそが、人間としての実体を深めていく鍵かもしれない。
大学生A: そうだね。だからこそ、何かを定義するだけじゃなく、常に学び、感じ、行動し続けることが、私たちが「人間らしさ」を生きるための大切な道なんだと思う。