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”視”ること|2734文字

物事を考える点においての重要なことは、僕らは何を考えているか。またどうやって物事を区別しているのか分かりますか?

これは視点、視野、視座の3点から明確に理解することができます。

視点とはなにかというと。これは自分の眼から捉えている対象。
簡単にいうと、注目しているポイントです。

視野においては、見る範囲です。

そして視座においては、見る立場です、
これは目の場所でもあります。
例えば、階段の上から見る世界と階段に上らず、地上で見る世界と場所によって見え方や、見える範囲違います。

ここから言えることととして、視野によって大きく視点と視野に大きく影響します。

視点、視野、視座が違うということ

・視点が違う
これは、捉えている対象の中でも注目しているポイントが人によって違います。
抽象画をみたときに、この青が良い。という人もいれば、この黄色が良いという人も言えば、この混ざり合った何とも言えない色が良い。というように注目する点が異なることが多いのは視点が違うからです。

・視野が違う
これは見る範囲が異なるということです。
例えば、バスケットコート上に立った時にリングだけを見る人もいれば、リングやコート上を見る人もいれば、リングやコート、そして体育館全体を見る人もいるという部分での視野の広さ・狭さの違いです。

・視座が違う
これは見える範囲、見る部分、対象物の認識が違うということです。
例えば、先ほどのバスケットコート上での例題でいうと、バスケットコート上から出たときにバスケットコート全体やもっと広く見て体育館の外に出たときに体育館全体が見えたりするという部分で、対象をみる自分自身の見る位置が変わったり、それによりより俯瞰的に見えたり、逆に注目的にみることもできることで見る角度によって対象物が異なるということです。

そして対象物の認識が違うというのも視座の違いの一つです。
これは、単純に対象物がひとによって認識の仕方が違うということです。
例えば、木の棒を見たときに、ある人は箸といい、またある人は、木の枝と言い、ある人はペンだということがあります。
この部分で使う用途によって対象の捉え方が変化するのも一因の一つです。


物事を見る。

これは一つのツール・道具です。
なので今起きている、悩みを抱えている多数の、複数の集団の中でその同じ課題に対して語らせると別のソリューションが返ってきます。
また人によっては視座が異なってより俯瞰した視座で物事も考えている人もいます。

僕らの思う、正しさとは何なんでしょうか?
よくある道徳と言われる言葉も何なんでしょうか?
誰が定義したのでしょうか?

これは各々が体験を通じてうえでの定義で良いのかなと思います。
その上での共通項としての「正しさ」だと思います。
逆に、「正しさ」は「正しさ」という「対象」でもあるので
自分が「正しい」と思うものの見方で大丈夫です。
ただ視座、視野、視点の言語化はより大きな視座を生みます。
これはつまり道徳に近いのだと思います。
裏を返せば、道徳は「気づき」から生まれより広くのものごとを見るためのツールです。

なんかこのひとむすっとしているなとか、なんでこんなことをこの人は話しているんだろうかとか思うときはこの視ることから生まれる視点、視座、視野の違いによって意識すると理解できるようになります。

難しい話をします。
人間の心は球体なんじゃないかと思います。
例えば、地球同様にあらゆる大きな天体といわれるものも球体であり、日常にある水、食器、菌、空気中に舞うあらゆるものも個別的に表すと球体です。

「さて、力が展開し、それが、自由に、なんの妨害も受けることなく、あらゆる方向に向って、全面的に、自己を表現するならば、その空間的な現われ、ないし物体的な産物は、球である。したがってまた、球の形をした形態。あるいは一般的にいって丸い立体的な形態が、自然の全体を貫いているのであって、これこそ、最も普遍的な、最初の、そしてまた最後の、自然の形として現われるものである。」

『Die Menschenerziehung』Friedrich Wilhelm August Fröbel

自然の形が球なのであれば、人の内面というものは分かることはないということも分かります。
それはその人にしかないその時の視点、視野、視座である。と。
人間らしさとはなんなのか。そう思ったことがある。
「これはそれぞれの球の美しさなのかな。」と疑問を抱く。
でもそれもまた高い視座でみるから,"「これはそれぞれの球の美しさなのかな。」と疑問を抱く。"ということを思うのだろう。
もし仮に、完全な球体ではない場合にその球体に穴が開いていたらそれは人間らしさではないのかなとも思う。
でもそれが心から漏れるその万物から逸脱したその物こそが人間らしさなのではと思う。
これは人間中心的な、自然環境を人間で保護しようとするSDGSのような広い社会課題にも通じる。
ただ万物の完全さには勝てないと思う。
人間すべて生まれては死ぬもの。
その流れには逆らえないし、むしろ自分たちで球体から穴を多くする、もっというと人間中心的な考え方をする、思考する行為はなくならない。
そう感じたときに、人間”らしい”という近似解での人間として言語化する。
そして、なんで家庭で、学校で、会社で、近所で自分に対して、周りの人に対して、自分以外の他者に対して利己的な思考をするのだろう、逆に利他的な動きをするのだろう。とこのどちらかを感じてもそれが人間”らしさ”として示すのも一つの視座であり、視野であり、視点であるのだろう。

「球体に穴があれば、それが人間らしさだろう」
これを前提に考えたときに、
「球体が完全だったときに、それは人間らしさではない」といえる。
ということは、「完全な時には人間であり、人間ではない」ということもいえる。
その視座はなんなのか。
これは、「なんなんだこの人は?変人で分からない」という人ほどこの意味に該当していると思う。
真に心の内側、つまり他者の主観を感じる、表現するとしてもしれは自己の一種の表現にあたる。
「人間を、その人を見つめる、感じるようになるには「分からない人。変人。」という前提で受け止める必要がある。」
自分で、前述の条件を理解していても抗いたくなる。それもまた人間らしさであるし、人間だと思う。
自分をわかってほしいという承認欲求であったり、自分の心はいつか誰かに分かるものだといってもそれは不可能だ。なぜなら私も、あなた自身もまたユニークであるから。
その違いを受け止めること。その中に視点、視野、視座という具体要素が出てくる。
さて、今の目の前に自分の見てる事象はどんなものなのかぜひ思考してみてほしい。


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