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悦ばしき知識

昨日は、諏訪から新宿に高速バスで向かっていて東京でゲリラ豪雨にて氾濫している場所があったりと鬱々とした日として覚えている。
僕は憂鬱である。
故に事実として鬱々ではないが、鬱々に見えるといいことだ。

なんでやろな~考えるとそこには人という中でつながるものがない社会に向けてアクションしているから、思考しているからなのかなと感じる。
それ故に孤独であるということを信じていないのだ。

以前に、戸松美さんが主宰する「肉態演劇」を見に行ったことがある。
僕自身は行く前にこう感じていた。
「最終的にカオスになる。めちゃくちゃになる。」と。
ただそのなかでも、メンタルの崩壊というストーリーとそしてエントロピーが高まっていくその温度。
その温度、子供の時のお祭りをやるとき、旅行に行くときのどきどき、ワクワクした感じのようなものが再帰する感じでやってきていた。

それはある意味、解放にも見えた。
解放というのは、世間でいう金銭的な自由とかではなく、社会のなかにあるコンテキストからの解放でもあった。
そこには秩序はないし、でもみんな普段よりも動いてそしてはるかに自身のらしさがでている状態。

ここで自身の経験から言う。
それは規定したものは規定したものに過ぎないということ。
経済的な部分での自立とか、不安とか期待とかいろんな欲求をあおる中で先走って埋めようとする中で生まれたものが創造であり、虚構であり、
現代の貨幣でもあると感じる。

その意味合いで僕はこの現代社会で生きるためにはそのレールに乗る必要がある。と感じていた。
逆を言えば、どうなのか?
それは現代社会に生きないため(死ぬことで)、そのレールから外れるということ。
ただ現代社会は現実にある。
その前提から歩むと、レールから外れるということは無を意味する。
つまり、”社会”的に意味はない。ということになる。
果たしてそうなのかと思い生活しているとあらゆるものを想像する。
それは、僕らでの贈り合いというものだ。
体験ベースでいうと、僕がひとに料理を提供したことがある。
そしたらその人がこういうごはん美味いよとか、こんなもの買ってきたんだけどとか聞いてきてもう一回料理をして美味いなぁぁと話したことがある。
それは”社会”的に意味はないが、”僕”と”その人”の中では共立のような状態でもあった。
それは果たして、無なのかと考える。
そう思ったときに、素直に無ではないと感じた。

これはある意味、現代社会はPS4だと分かりやすいと感じる。
僕らが見ている社会はそもそも、一対Nでそして、匿名である。(そして、コントローラーを通してその”ゲーム”を楽しむ)
ただNの中でも仮に、自分の知り合い、話しかけたことがある人の中でNを規定するならそれは"見える”社会と言える。
ん?ということはどういうことかというと
要に、現代社会は”見えない”社会の中で貨幣が動いているということだ。
僕がいう、”無”の定義はこの中にはいない。
自身思いや体験もそれはユニークでありそして伝わり切るものではないというのある意味で他者への絶望だ。

イベント終了後にムラブリ族研究者の伊藤雄馬さんとご飯にいった。
その中で「人間は球体で、そして僕らの見ているものは微分したものによってみている。またその数値もまた人それぞれだ」ということも言っていた。
さらに「その球体に穴があるからこそ人に伝わりやすくはなる。」と

伊藤さんのおっしゃっていたことの部分での、”伝わらない”ものというものに対して僕は強く藻掻いていた。
なぜかというと、真にそれが僕にとっての過去からきているコンプレックスでもありそしてみんな、ぼくであればいいというところがあったからだ。
そしてその人と人との共通項を限りなくつなげようとすることこそが至上であると直感で感じていた。

この僕の意見は伊藤さんの意見を聞いたうえで再帰した。
これは、僕にとっての志、そして現代社会での1体N(ex SNSでのつながり)などによってのものよりも現実で、出会った人にむけてのものとして見えば良いと感じた。
その意味では現代社会においての生き方を再考しなければならない。
よく他者に、あなたは分からない。と言われる。
でもそれでいいんだ。ぼくにとっての過去はそれだけに貴重でかつその体験もまたその人らしさに反映していくものだと感じた。
こういった藻掻きによって、さらなる言語を、認識を高める。

こんなことを公演を通して、そして公演後での伊藤さんを通して感じた。

「そのまま、このまま、ありのままに、」

これは、戸松美さんが肉態を通したもので伝えたかったことでしょう。

そして僕も応答した。

みんな(参画者も参加者も)応答していた。
現代社会は、僕らが太陽がある故に人影が写るように、社会があるからこそ人々の欲求の影が見える。
その影を追っても、それは孤独の穴埋めのためなのに。
ここは白夜でもない。
朝と昼、夜もある。
でもそれでも生きている社会は、前述している現代社会だ。
それは変わらない。

こんなことを感じていたから鬱々ともする。
でもふと、何かを思い出す。

「そのまま、このまま、ありのままに、」

あれ、何で思い出したのだろう。

ニーチェはだからこういったいたのか。と僕は想像した。
その一言を引用して終える。

「もしある日または夜、悪魔があなたの後にあなたの最も孤独な孤独に忍び込み、あなたに言うとしたら、「あなたが今それを生き、それを生きてきたこの人生、あなたはもう一度そして数え切れないほどの回数生きなければならないでしょう。そしてそこには新しいものは何もありませんが、すべての痛み、すべての喜び、すべての思考とため息、そしてあなたの人生のすべてが言葉では言い表せないほど小さいか大きいものは、すべて同じ連続と順序であなたに戻らなければなりません-このクモとこの月明かりの間でさえ木々、そしてこの瞬間と私自身。永遠の存在の砂時計は何度も何度も逆さまにされ、あなたはそれを持って、ほこりの斑点を!」

ニーチェ全集 8 ─悦ばしき知識

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