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賀茂斎院の御禊 なるべく挿絵付き『葵』②104
・ 新斎院(弘徽殿皇太后の女三宮)
その頃、朱雀帝への御代替わりに伴って、伊勢斎宮だけでなく賀茂斎院も退下なさいました。
弘徽殿皇太后の女三宮が新斎院にお決まりになりました。
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院も皇太后も特別に愛しておられる宮なので、現世の幸福から切り離されて神に奉仕する身になられることをとても辛くお思いなのですが、他に適当な女宮がおられないのです。
新斎院の儀式は慣例通りですが、定例よりは派手やかに華やかに行われるようです。
賀茂祭では、朝廷の規定の事以外に華やかな催しが多く足されていて、見所が多いようです。
皇太后と右大臣家の威勢の賜物なのでしょう。
新斎院が紫野の斎院御所に入られる前に御禊(ごけい)があります。
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御禊の日に供奉する上達部の数などは定まっていましたが、世評高く美しい人達は特別に呼ばれ、下襲の色、表の袴の紋、馬鞍に至るまで、皆揃いの支度がされました。
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おぼえことに 容貌ある限り 下襲の色 表の袴の紋 馬鞍までみな調へたり
特別の宣旨が出され、源氏も加わります。
牛車の用意も整えて、皆が見物を心待ちにしています。
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・ 御禊の日
いよいよ御禊の当日です。
一条大路は隙間もなく恐ろしいほどにざわめいていました。
そこここに各々趣向を凝らした桟敷ができていて、御簾の下から見せている袖の出だし衣も大変な見ものです。
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・ 当日の葵上
葵上は元々外出を好まない上に、悪阻の具合も芳しくないので、見物に出掛けようなどとは思ってもいなかったのですが、
若い女房達が、
「あら、そんなこと」「私共だけで忍んで見物したところでぱっといたしませんわ」「世間では、今日は、賤しい田舎者まで皆、源氏様を一目だけでも拝見したくて集まるんでございますよ」「遠い国々から、妻や子まで連れて参るそうでございます」「奥様がご覧にならないのはあんまりでございますわ」と言います。
母宮がお聞きになって、
「今日は丁度御気分もおよろしそうですもの」「あなたがおいでにならないと、女房達がつまらなそうですわ」とおっしゃいます。
葵上も気持ちを変えて、急いで供回りなど整えさせて見物に出かけます。
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📌 斎院
斎院が賀茂祭に奉仕されるには、次の次第が定められていたそうです。
卜定 → 御禊(ごけい) → 初斎院(宮中) ~2年~ 御禊 → 4月上旬に斎院御所 → 4月中の酉の日に賀茂祭。
御代替わりの時に斎院が定まってから、賀茂祭前の御禊までには2年を要するそうですので、
右大臣邸での藤花の宴の後に御代替わりがあったとすると、少し月が足りないようにも思うのですが。
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あ!藤花の宴は三月二十余日ですね。
だとすると、タイトなスケジュールかと思いますが、その直後に御譲位があって、卜定から初斎院の二年の潔斎まで遊ばせば、四月中の酉の日の賀茂神社の祭まで段階を全て踏まれることが可能ですね。
失礼しました。
📌 賀茂神社、内裏、鴨川、斎院御所、一条大路など
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📌 2年間潔斎された斎王が張り巡らした幕の中で果たされたという御禊を、葵祭の公開されている御禊の儀から想像をめぐらすのは畏れ多いやら有難いやらです 😳
眞斗通つぐ美