時に、やさしさは仇となる

 戦災孤児だった私は辛い幼少時代を過ごした。家族も家もない。橋の下に寝られたら幸運だ。雨露をしのげる場所は一等地なので、小さな子供が寝ていたら、大人の浮浪者に追い払われてしまう。どこにも居場所はなかった。
 食べる物も着る服もない。施しを貰えない日は盗んだり奪ったり、生きるために何でもやった。良識ある市民の皆様にしてみたら、私は社会の害悪でしかなかっただろう。私は彼らに石もて追われた。彼らは私の死を望んだのだ。奴らにクソくらえと叫んだ日を、今も忘れない。忘れる日は永遠に来ないと神仏に誓ってもいい。当時の悔しさを、今も鮮明に思い出せる。ああ、お前らは浮浪児を排除したいのだろうが、絶対に生き残ってやると心に決めた日が、まるで昨日のようだ……あれ、今日は何月何日だったかな? 今は昭和だったかな、それとも平成だったかな? ま、どちらでもよい。あの頃の話をする。
 ある日、私は手提げカバンを置き引きした。カバンは小さかったが重かった。食べ物か金目の物が入っていないかな、とワクワクして中を覗いたら、黒光りする自動拳銃が入っていた。
 驚いたのは最初だけだった。次の瞬間「自分はツイている!」と喜びが爆発した。これさえあれば大人にだって負けない。子供だと思って舐めてかかる奴は撃ち殺してやる! と私はほくそ笑んだ。
 さっそくホールドアップをやることにした。羽振りの良さそうな男を見つけ、後をつける。他に人影が見えなくなったところで呼び止めた。振り返った男に拳銃を突き付け、金を出せ! と叫ぶ。
 男は私に近づいてきた。私は後退りしながら怒鳴った。
「この拳銃が見えないのか! 近寄ったら撃つぞ!」
 薄ら笑いを浮かべて男が言った。
「知ッてるか坊主よォ、拳銃ッてのはなあ、安全装置を外さないと撃てないンだよッ」
 生まれて初めて知る事実だった。安全装置というものがどこにあるのか分からない私がまごつく間に、男は私の手から拳銃を奪い取った。そして拳銃を持っていない方の手で私を何度も激しく殴打した。ごめんなさいと謝っても許してはくれない。立っていられず倒れた私を、何度も何度も蹴る。やがて男は言った。
「お前さあ、生きていたッて、楽しいことなんか一つもないだろう? 生きるッてのは、苦しいことの連続だよな。分かるよ、俺にはお前の苦しみが、痛いほど分かるさ」
 額の汗を拭って男は言った。
「喜べ、俺がお前を殺してやるよ」
 私は体を起こし四つん這いになって土下座し命乞いをした。男はケラケラ笑った。
「お前を嬲り殺すのは簡単だ。しかし、それだとお前に無用な苦しみを与えることになッちまう。俺は慈悲深い男だ。一瞬で楽にしてやる」
 頭の上で拳銃の撃鉄が引き起こされる音がした。
「死ね貧乏人、これから豊かな国になる日本に、お前の居場所なンてねえンだ。死ねよ、そしてあの世で旨いもンたらふく食え」
 男が呟いた次の瞬間、凄い音が頭上で鳴り響いた。私は自分の頭が吹き飛ばされたと思った。全身がビクッと震える。同時に誰かの絶叫が聞こえた。自分の声だと思ったら違った。驚いて仰向けに引っ繰り返った私の目の前に、男が座り込んでいる。血まみれの右手を左手で抑えて、男は叫び声を上げていた。私の方は見ていない。血だらけの両手を睨み付け、ただただ咆哮している。
 故障している拳銃で撃とうとして、その銃身が破裂したのかも……と後になって考えたが、あのときはそれどころではなかった。絶叫する男を後に残し、必死になって逃げる。男は追って来なかった。私は逃げ切った。
 あのとき、男が私に代わって発砲してくれたおかげで、私は大けがをしなくて済んだと考えている。彼の間違った優しさで、私は救われたのだ。
 あれから半世紀を超える歳月が過ぎ去った。助けてもらったお礼を言わぬまま私は老いてしまった。記憶が日々薄れているので、もうすぐこの思い出も消え去ってしまうだろう。忌まわしい思い出だったが、この年になるとそうでもなくなる。子供の私よりずっと年上だったあの男は、とっくに鬼籍に入っているはずだ。あの世であったとき、御礼を言いたい……といった話が見慣れぬ筆跡で綴られたノートを実家の仏壇の裏から見つけたのだが、私の親族に戦災孤児はいない。老いた両親に尋ねたが、二人とも知らないという。
 ここに掲示した手記をご存じの方がおられたら、当方に連絡を乞う。

#やさしさに救われて

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