ヒトリボシ (4)
結局、小百合はまた家を出ることになった。
折角、一緒に暮らせるようになったのに……娘を追い出すことに。
引っ越す前夜、
「お互いに腐らず、発酵、熟成しよう」
なんて、小百合に言ったものの、順子の心が腐れていく。
関わった分、嫌われる順子。
そして、関わってない分、健一の方が娘達にとって「良いお父さん」になっている。
「割に合わんわ!」
そもそも健一が原因。私と娘の関係を壊し、私の人生を壊した。妻子をほったらかしで壊すだけ。
「百年早いわ!」
順子から見ると、自由を与えられ、好き勝手奔放に生きている娘。
こんな娘を作り上げた親の顔を見てみたい。
でも、自分でもわかっている。娘は自分の人生を毎日、懸命に生きている。そして、私ももう今までに一生分の面倒を看たというくらい、子育てを頑張ったと。
「子どもは親の何を見て、大きくなる?」
順子は一人、以前娘達と手を振り合った三階の出窓から遠くに目をやりながら自問する。
「後ろ姿だ」
親達に何度も何度も破られては必死でバリアを張り巡らせていた順子の後ろ姿。
そんな母親を見ながら育った娘達。
順子は遥か遠くに屏風のように連なっている山に目をやり、今はあの衝立の向こうにタンポポの綿毛のように飛んで行った娘を思いながら、
「絶対に娘が張ったバリアを破らない!」
と固く決意する。
私には必要とされてないのに、私の親達のようにしつこく口や手を出し、邪魔者になる勇気がない。娘にとって重い親にはなりたくない。
「私の親達は無神経なのだろうか?」
「鈍感なのだろうか?」
「私の気持ちに気付かなかった? 否、そんなことはない」
気付いていながらも、構わずズケズケ、グイグイ干渉してきた。
そんなこと私にはできない。
「この位の距離がある方がいい」
順子は親に張ったように娘にもバリアを張る。
「天の岩戸」のように娘が扉を自分で開けるまで。「北風と太陽」のように自ら上着を脱ぐまで。
そんな日が来るのか、来ないのか。
「来た時、どうする?」
「嫌味の一つや二つ言ってしまい、更に扉を閉められるのでは?」
順子とって「バーテンダー」は難しい。
※
娘達はそれぞれ一人身軽に自分の必要なものだけ持って家を出て行った。
「私も引っ越したい!」
「娘たちが住んでいるような部屋へ!」
ところが、三十年の間に順子は「山椒魚」(井伏鱒二)と化していた。家から出ることができない。
結婚当初、購入した時は高額だった土地は半値、いや半値以下の値段になっている。家は大地震に耐え、いくら修繕し、工夫し大切に使ってきたとは言え、老朽化している。これで売るのは……
しかも、部屋の中には家電を始め、今や死語となった婚礼箪笥や鏡台、本棚等が鎮座していて、三階には余り使われず、場所だけ取る勉強机が二つ幅を利かせている。
そして、娘達が残していった物。サンタさんが毎年持ってきたメッセージカード。
「毎年、違うカードを用意するのに、サンタさんは結構苦労したんだよ」
プレゼントの品はいつの間にか壊れたのか、見当たらない。
小百合が大学に入学した時、期待より不安でドキドキしていた小百合に応援メッセージの手紙を渡した。小百合は一週間もすると、大学生活に溶け込み、十分に四年間を謳歌した。その手紙も机の引き出しに残っていた。
自分で考え、心を込め渡した物を自分で捨てる。
サンタのカード、要らなかったのか……
応援メッセージ、的外れだったのか……
「いずれ子どもが独立し退職したら、夫婦二人で海の見える街に引っ越そう」
と言っていた。
そんな夢も儚く消え、一人で何もかも処分し、引越準備するのはかなりのパワーがいる。その上、健一も連れて引っ越すことはとてもできない。
今では健一の行き先が一番の問題。
夫の介護と言う大きな荷を背負い、死んでも困る、生きていても困る夫の行く末、そして、離れて行った娘達には意地でも頼りたくない自分の行く末を案じながら、心震える日々。
山椒魚、
「フゥーー」
と大きなため息をつく。
※
「えらい目にあったで」
「何が?」
今までなら、こんなふうだっただろう。いや、悲鳴を上げてたなら、見に来てくれてた?
お風呂に入ろうと浴室に一歩右足を入れた瞬間、タイルが滑って足がズルーーッと伸びた。そして、次の左足も同様ツルーーッと。両足が滑った。順子は歯を食いしばって声を上げなかった。
順子は水回りはいつもきれいにしておくように気を付けている。
「じゃあ、なんで?」
「意地悪?」
「これ以上私を痛めつけたい?」
健一のために付けた手摺りはあったが、どこにどう掴まったのか、体はほぼ斜めになったが、辛うじて転ばずにふんばった。
どこも打つことなかった。
よく頑張った……
でも、明日が怖い。グーーッとふんばるのに力を入れた所が痛むのではないか。ホッとするために入ったお風呂でスリリングな思い。
「えっらい目にあったで」
順子は一人声にした。誰もそれに応えない。
「えっらい目にあったで」
もう一度今度はもっと大きな声で言ってみた。
健一がショートステイに言っている間は独居になる。大きな家ではないが、親子四人で暮らしていた家に一人ポツン。
たった一人で夜を過ごすことは今まではなかった。健一は仕事からの帰りがいくら遅くても、必ず帰ってきたし、健一が外泊の日でも娘のどちらかが居た。
今は一人。
独居には危険が潜んでいる。
気を付けている時は良い。怖いのは不意打ち。
「そんな時、誰が助けてくれるん?」
「せめて、素っ裸で倒れているのを発見されるのだけは……」
案の定、次の日、右足首やら左の腋腹やお尻が痛い。三日目には体のあちこちが悲鳴を上げ出した。湿布を張るのも手の届く所はいいが、手の届かない所が……
独り身の辛さが身に染みる。
風呂に入るのも何をするのもハラハラ、ビクビク。
自分ではまだ若いと思いながらも、老いていくことが悔しく、哀しい。一人で暮らすことは気楽ではあるが、体の芯はピリピリ常に震えている。
「慣れる?」
「いつになったら?」
もう開き直るしかない。
「ドスコイ!」
と。
そして、やっと眠りにつくと、すぐ朝が来る。容赦なく。
※
順子の楽しみは園芸。庭とも言えない西日と北風の強い狭い場所に好きな植物を植えている。
近所の通りがかったお年寄りに、
「お宅は葉っぱも花も元気やな。どないしたら、そんなふうになるん? あんた、園芸習ってるん?」
と聞かれた。
この人は以前、順子の見ている目の前で何の断りもなく、咲いている花を平気で引き抜いて行った。家に持ち帰って根付かせようと思っていたようだが、さて、上手くいったのか?
順子はこんな人を相手するのが嫌で、
「習ってませんよ」
と答えてやり過ごした。すると、その人はしばらく植物を眺め、
「ま、せいぜい頑張って」
と言ってヨボヨボと立ち去って行った。
「『せいぜい』て何よ! 『せいぜい』て!」
花を咲かせる楽しみも、上手くいけば、いったで余計な口や手を出してくる者がいる。
好きな花を咲かせたい。
重なり合う葉によって光は濃くも薄くも見える緑の葉っぱの裏から太陽の光線が差すのを仰ぎ見るのが好き。
ただそれだけなのに。
しかし、よくよく見てみると、年々枯れたり、花数が減ってきている。
健一の介護に手が掛かり、以前のように世話できないのとここ数年の夏の葉焼けするほどの暑さや虫、そして、余計な口や手を出してくる人に会うのが面倒で玄関から出るのが億劫になってきた。
ところが、なんと手を掛けなくても、咲くものは咲く。
植物のエネルギーは順子の小手先の世話など取るに足らない、余計なお世話とばかりに芽吹き、花開く。
「なぁーーんだ。良かれと思ってしていたのに。植物も子育ても同じ」
梅にしても桃にしても木蓮、バラ、紫陽花、金木犀、庭が狭い分、鉢植えが多く植物にとってはストレスが大きく、一喜一憂を繰り返してきたが、皆、それなりに育つ。
一方、健一の趣味は野球観戦。弱いチームを応援していたため、負けることが多く、その度に激怒する。血圧を気にするも何もあったものじゃない不健康な趣味。
※
唇が痛い。
食べ物が沁みる。動かすと痛い。