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悲哀と敬服

悲哀は、痛みである。

痛みはおそらく機能不全であったり、悲しいということだ。

好きだったあの人がいなくなっちゃったり、

病気が鳴り止まなかったり。

敬服は悲哀と感謝の融合だ。

敬服は、自分を育んでくれた大きな流れに感謝をせずにはいられない、この気持ちを言う。

そしてそれは悲哀も通り抜けてきている。

故に悲哀の痛みとその傷が疼く感じもある、でもそれらを含めて、やさしい感謝が湧いてやまないのだ。

悲哀は痛みだけ、敬服は痛みも持った、感謝。

そしてだけどきっとね、

もうそれは本当は痛みの段階から、育んでくれていたんだ。

痛くてしょうがなかったあの頃から、"やさしさ"はずっと見守ってくれていたんだ。

だから人は言った。

「私の過去に懐かしむ過去なんてものはなかったけれど、私はその懐かしむ過去なんてなかった過去を見守った何かの存在を、私は懐かしむのだ。」

痛み、懐かしむ過去もなかった、

それを見守った自然を、何か大きな存在を、愛のある優しさしか持たない存在を、懐かしむのだ。

だから私は私の幼少期を、小学生を、郷愁するのだ。

悲哀と敬服、敬服は悲哀を通り抜けた感謝。

そして悲哀は、実はやさしさのあった悲哀。

懐かしい過去も、愛のある過去も、輝かしい未来も、そこに何もなかった、

そこに何もなかった、ことを見守った、

愛のある存在。

それを私は自然という。これを他の人は神とか仏とか、大いなる存在と言うのかな。

悲哀と敬服。

この二つの境目を!!

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