私は強い人間ではない
【精神疾患や重い内容が含まれているのでトラウマの危険がある方はお気をつけください。】
中学の時の劣等感はそれはもうひどいものだった。私だけ何か他の人間と違う生命体かのような感覚があった。"何か違う"この感じ、成績も運動もできたが、私は人間ではなかった。
いやあんたは人じゃないか、そう言われても、人の身なりをしているだけで心は空虚、というのもそこには家庭の機能不全があるんだということを、私は実にそれから9年ほど経って知ることになる。
野球部で肘の手術をし、ピッチャーとしての復帰戦、大失点を喫し、それが何かのトドメとなった。もともと劣等感の強い私が、「今度こそ負けてはいけないのだ」そう思うようになった出来事だった。
高校も危うい季節だった。他人とのコミュニケーションが絶望的に出来なかった。まずそもそも第一、自分が苦悶しているんだ、それが脳で認識されないというか、言語化もできなかったので、高校2年になると同時に鬱になって不登校になった時、それは本当に「何で自分でこうなっているかも分からない」という感じだった。
もし私が文学的にも哲学的にも思慮に富むと言えるような人物に少なからず他の人から言われたとしても、思春期全体10年に及ぶ地獄を思えば至極妥当な評価であるとすら思う。本当に言葉になどできなかったのだ。
友人だけ生きていた。友人だけ生きていた。友人だけちゃんと空に向かって咲く花のように、すくすくと育っていった。
とてもじゃないがこの半生は誰にも真似はできないと思う。何が苦しいかも分からないという苦しさである。
不登校になって17歳になって、母が私の不登校にひどく狼狽して(それが育児不安そのものを現していたことに後年ショックを負う)、私は罪悪感と申し訳なさで生きていてはいけないと思った。
ある出来事がきっかけで父に「お前はそんなんだから学校に行けないのだ」と言われ、それから狂ったように本を貪り読み、そして自己啓発の類の動画を頭が狂うまで視聴した。
その結果躁鬱を患った。躁鬱の鬱は何と言えばいいか、何と言えばいいか、これがその熾烈さにぴったりな最適な表現である。「何と言えばいいか」
1週間睡眠をとることができなくなっていたため、脳の機能が低下し、最終的には親への感謝と数人の友人へのお礼をLINEで伝え川に飛び込んだ。
川は雨の日の後もあってか増水していた。
だが私は川の端から飛び込んだので、溺れることはなかった。その時だけ生きる力が湧いてきて、私は結局のところ死ぬこともできずにのろのろと川から這い上がり、鳴り止まない親からのLINEに応答しながら家へ帰った。
親には感謝を伝えたつもりだったが、父親にはそれを消せと言われた。
精神病棟では文字通り精神病棟なので、自我がすでに崩壊している方をたくさん見かけた。
話は長くなりそうだから、まとめるけれど、その後も特段鬱は治ることなく、人生を相談しに行った住職に「努力せよ」と言われ、そして仏教を学び、仏教は徹底的な人間洞察も含めているので、激しい禁欲を自身に課した。
不登校、躁鬱、そして19歳にとてつもない鬱に陥った。その時は躁がなかったので、強烈な希死念慮の最中に躁がないだけまだましか、ということを思案しながら私はなぜか生き延びた。
しかしそんなところで鬱は治らなかった。
そこから実に20回、大きな流れというべき希死念慮があった。
13歳から22歳までのこの期間は、私にとっては劣等感と鬱と罪悪の期間以外の何者でもない。
そもそも生きて、いないのだ。
今もその後遺症か、明日事故にあったら、明日何か犯罪に巻き込まれて殺されたりしたら、そんなことを思うことがある。
鬱が治っても、思うことがある。
しかしながら私はそれはもうその時だったのだろう、と、思う。
生まれたけど生まれてない人が死ぬ、この時代には人間なんてものは、はなからいないのかもしれない。
私は強いのではない。日々の発信も創作も、本当はこんな生育歴から始まっているのだ。
1人の人間に、耐え切れる量ではない。耐え切れるような苦悶量ではない。
それから宗教問題や青少年の自愛不全の問題に悩むことにもなるが、もう許容量はとっくに超えた。
本来の私は、そんなに元気な人間ではない。