そんな体力は、もう時代的にない。
夢を持て、世間にはよくこの言葉が叫ばれる。
大志を抱け、夢はでっかく、志高く。
私は少し特殊な出自で、この現代なのにそのハングリーさも持ち合わせているが、
私の友人や私をフォローしてくれるたくさんの繊細で美しい感性を持つ方、を見ていると、
もうそんな大志を抱け的なことを本当に実現できる人間はほぼいない。
そんな体力は、もう時代的にない。
私はおばあちゃんにパラレルワークの話をしたことがあるのだが、おばあちゃんは「あんたは何になりたいのよ」と私を一蹴した。
それが悲しかった。
これはその時に書いた記事だ。
昔の人たちは、「何者かになる」ということが生きることの意味だったようだ。
何かが不足している、ところから何者かになる、ということだ。
しかし今の時代はもう誰もが"何者でもない"感じがする。
誰もが"何者でもない"のだ。
もう何者かになって、それで社会的成功を収める、という価値観はこの子たちには通用しない。
私の父はまだそれを追いかけ、それが正しいと思い、そしてそれを私に覆い被せる。
俺ができなかった夢を追え、と。
しかしばあちゃんも父さんも、この時代のことを考えていない。
この時代はもはや誰もが"何者でもない"時代で、"何者にもなれない"時代だ。
それを如実に私たちにその価値観は通用しないよ!と発信してくれているのが、たくさんの少年少女が持つ精神障害だ。
それらはすべてこの時代齟齬を映し出した鏡のような存在だ。
時代齟齬。
もう噛み合っていないのだよ、何者かになれという大人と、何者にもなれない子どもが。
絶望的に噛み合っていないのだ。
私はそれを父からの拷問だった、と思っている。
そして私はその拷問を耐え抜く、という選択肢を取った。
ここを逃げる、という選択肢を取った方は家出をしたり社会的な施設に入ったり、ということだと思う。
正しい判断だと思う。
私はその選択肢は許されてなかったから、耐えるしかなかった。
故にこの時代においても大志を抱く、ハングリーさがある。
しかしそれは喜ばしいように思うかもしれないが、こうなった理由は、拷問があったから、だ。
時代齟齬、という拷問だ。
だから私は強いのだ。
最も弱い存在で、それでいて最も強いのだ。
悲しきモンスターだよ。
だから私はやりたくない拷問を耐え抜いただけで、望んでそうなったわけではない。
だから私は精神障害を持つ彼ら彼女らの側につく。
だから私は何度も言う。
夢を持て、大志を抱け、理想を描け、
そんなことをする体力は、
もう時代的に、ない。