
17歳の老年期.
私の敬愛する児童精神科医・佐々木正美(ささまさみ)先生は、エリクソンの発達課題についてたくさん触れている。
エリクソンとは一世代前の心理学者で、発達心理学を創始した心理学者である。
そのエリクソンが提唱した発達課題は、乳児期から老年期まで分けて8つの発達段階がある。
そしてその発達課題を満たすことによって、その人物は精神的に健康に生きることができる、と言える。
ここでは内容は省くが、その中でも老年期、最後の人生の発達課題は何か見てみよう。
老年期(56歳以上から死後まで)の期間の発達課題は、統合(とうごう)と言われる。
統合とは、このとてつもなく大きな宇宙で、点のような存在であるこの私が、生きた意味はそこにあったか、あるいはそこに一つの秩序を、法則を、見出したか、という主観的成熟のことを言う。
これが老年期の課題であり、その対極の概念が絶望(ぜつぼう)である。
絶望とは、一言で言うならば「誰でもよかった」人生のことである。
それはつまるところ、自身には何も残らなかった、と言える精神的な主観の絶望である。
これが統合の対極、絶望の世界である。
ここまで大まかに説明をしたが、私は17歳の時にもう老年期が来たのではないか、と思わずにはおれない。
それは明らかな機能不全があったからだが、17歳での私はとにかく自然と一体になりたかった。
自然しか、私を受け入れてくれなかった。
だから眼を張り詰めて、自然を観察した。
そもそもその行為自体が自然とは反対を行く行為だと言えるが。
このようなことをしてる段階で、私は老年期を迎えていたのではないか、
なぜなら自殺未遂をした経験があり、そこで必然的に自身の"死"を見せつけられたから。
ということで、私は17歳で老年期を一時期ではあるが迎えた、そんな気がする。
そしてこれは私だけではない気がする。
"思春期の老年期"が最早若者ーとりわけ感受性が鋭く、脆く、臆病でそれでいて強い少年少女ーの間で起きているような気がする。
これは一種の、この現代の破壊である。
破壊であり、破滅的結果である。
それをかろうじて命を繋いだ私が、書きつけておかねばならない、と思って書いた。
この世の中では10代の老年期、が
たくさんの人々に起こっている。