融通無碍は人の心から
おそらく融通無碍は人の心を知るというところから、生まれてくると思われる。
人の心が分かる、というところから生まれてくると思われる。
なぜならどんな指摘をしてくる人がいたとしても、その人の動く原理というものをまずこちら側が把握してしまうために、現にこの人物の発言に良い意味で捉われることがなくなるからだ。
故に人の心が分かるということは、つまるところ無碍を意味し、無碍を意味するということは精神的な安定を意味する。
つまり精神的な安定は人の心について分かる人が得る境地だと言えるであろう。
人が心で動く以上、心を分かるものが融通無碍になるだろう。
しかし心が分かるということは、一つの禁欲主義から脱け出していなければならない。
社会に適応している、とりわけ若者ほど、
自身の欲をよからぬものと思っている。
故に怒られた場合はプライドを傷つけられる。
しかしながら、その欲を大きくしてみたらどうか。
その欲を大きくしていくと、あるところでそれは素晴らしい完成となる。
完成、練磨、完全、無欠、円となる。
そうなってしまえば、それは禁欲主義ではなく大欲主義である。
大欲主義になってしまえば、もう怒られることはない。
厳密に言えば怒られてもそれがありがたい。
他人の心が見えてしまうからである。
そして大欲は禁欲ではないので、自身が我慢をしないので、おおらかになる。
つまり問題は禁欲から生まれるのだ。
故に大欲をもって、人の心の完成とする。
そうなればもう、あとはその人の自由である。
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