見出し画像

善人の精神科医

人の成熟過程は最初は世界を疑うことなく純粋無垢で人は生まれ、そして世界を"善きもの"と信じている状態で生まれてくる。しかし生きるにしたがい世の理不尽、倒錯が見えてきて、厭世主義(ペシミズム)に陥る。従来ここまでが私たち青少年、現代社会の問題、あるいは精神障害の"概論"だと思われる。しかし、私の尊敬する精神科医の泉谷閑示先生は、そこでは終わりではないと話す。

その先にはニヒリズム(虚無主義)が待っており、さらにその先にはそれらすべてを止揚したアウフヘーベンした次元の高い精神性が生まれるという。この虚無主義とアウフヘーベン、この二段階が新たに提唱される。

また厭世主義と虚無主義が区別されており、厭世は生きる希望がないと説くが、虚無はその性質として"理不尽の告発"が含まれているという。つまり厭世主義は「何もできない」であるが、虚無主義は「それでも私は生きると欲す」この姿勢がある。そしてその先に虚無主義を通り抜け、すべてが止揚された世界つまりは「善と悪が包含された世界」あるいは「善と悪の二元論が超克された世界」が訪れる。

その先の景色はこのようなもので現される。

きれいはきたない、きたないはきれい

かっこいいはかっこ悪い かっこ悪いはかっこいい

このように本来世界で善とされていたものが悪と見做され、そして悪と思われていたものが善と見做されているのが特徴である。

これが人間の精神の深化(せいしんのしんか)と題されるもので、普通に真っ当に生きていては辿り着かない人間の成熟過程となる。

浄土真宗の歎異抄(たんにしょう)という著作にこのような言葉が出てくる。

「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」

歎異抄第三章より

これを訳せば「善人でさえ助かるのだから、悪人はなおさら助かるのである」ということになる。

しかしこれがもし、精神的な成熟をしていない人の前で説かれればどうなるかというと「なんだ、浄土真宗は悪を容認する心の広い教えだ」ということになり、人々はますます堕落し、傲慢になりかねない。

しかし先ほどのような精神の止揚、精神の深化を含めた世界でこの言葉を見てみると、また違った読み方ができる。

それは以下のようなものである。

「悪を犯してケロッとしているような善人でさえも仏様は救ってくださるのだから、ましてや自分の存在が汚く、醜く、取るに足らないと思っているような省察の含んだ人間のことはなおさら救ってくださるだろう」と。

つまりここでは悪人というのは省察を含んだ人間のことであり、またそれは必然的に「善人より善人」という要素が込められているのである。というように、私たちには一見理解できない言葉というものは、深い人間洞察が込められたものであり、一度では理解できない可能性も含まれているのだ。

このようにしてみると例えばうつというものを咀嚼して考えてみたいと思う。

私も過去の先人も含めて、うつというのは一つ世の理不尽を抱えた姿だ、ということを言う。世の軽薄さ、世の倒錯、圧倒的矛盾に心と身体がついていけなくなる症状である。

またうつは社会不適合という形をもって現れることが多いが、私たちはそれを必ずしも"落ちこぼれた"とは認識しない。むしろそれは「先に進んでいる」証拠だと見る。

そうするとこうも言える。うつになっていない人たちは、未だ社会の軽薄さ、空虚、欺瞞や倒錯に気づいていない姿であり、世の中を善きものとして信奉しており、現にまだ体調も悲鳴を上げていない、と言える。

お分かりかと思うが、これが先ほどの善人(ぜんにん)に該当する。社会適合とは一つの麻痺だ、と泉谷閑示先生は言われるが、それは未だ社会の倒錯を見つめ抜いていない姿であり、"批判的眼差し"で世界を見れない世界のことを現している。それは生まれた幼児と変わらない精神であり、厭世にも虚無にも陥っていない姿となる。故に社会不適合は世の理不尽を知った、という観点において「先を進んでいる」のであり、決して落ちこぼれたわけではないのである。

そもそもうつを患う方は、何がしかの資質において努力家である。うつを患う以前は人より勤勉であり、努力家であり、節制をしており、禁欲をしていた過去を持っている。その反動として身体がストライキを起こし、生きる気力が低下する。つまりは「殺された反動で死にたい」となっている、というのがうつを真正面から見抜いた姿である。

故にうつになった人に対して「あなたは努力が足りない」というのは御法度であり、そもそも私から言わせれば「努力が足りないというあなた、あなたはまだうつになっていないではないか」ということである。

半年前大学の受験があったのだが、友人にあまり勉強をしていないということを無意識に伝えてしまったことがあった。その時に友人は「舐めすぎだろ」と私に言ったのだが、私は何か心の内を指摘されて、罪悪感を高めた。しかしながらそれと同時に底知れない怒りが込み上げてきて、私はこう思った。

「そもそも大学受験というものは社会適合を目指すための機関である。社会適合は先述した通り麻痺の別名であり、この社会を善きものとして捉える思考停止の世界信奉である。友人はうつをやったことがないが、私はうつを治癒している。故に悪人、それはつまりうつになる人ほど省察に富むということを体感として知らされていた。またうつを抜け出し治癒するということは、一つの社会的規範からとらわれのない境地に抜け出ることである。これが精神の深化、止揚をした世界である。つまり真の創造性とは創造性からの解脱、生産性とは生産性という神経症性からの洒脱である。故に私は社会適合の先の世界、真の懐疑的精神の世界に生きてはいるが、この友人は現に社会適合内の価値観であり善人である。その善人が悪人である私に、「お前は努力が足りない」ということを言ったわけだが、果たして努力が足りないのはどちらで、舐めすぎなのはどちらだろうか」ということを一秒くらいで考えて憤慨したのである。

言葉には出さずそこは丸く収めたが、私はどうしてもそこに関しては我慢ならなかった。

泉谷閑示先生はこのようにも言う。

「自分より後ろを歩いている人に、道を聞いてはなりませんよ。」

つまりは現にうつに悩む人に対しては、そのうつを抜け出た人でなければ原理的にクライアントの悩みを扱えないのであり、現に社会適合的価値観にとらわれている"マニュアル"をこなす精神科医には人の情緒は扱えない、ということである。なぜなら精神科医自体が「厭世」にも「虚無」にも陥っていないからである。

また泉谷先生は昔音楽家になりたいと周囲の人に打ち明けた時があったそうだが、周りの人はこぞって「お前にはなれるわけない」と反対されたと言う。しかし先生曰く、後になってみればお前にはできるわけないと言った人たちは実際自分で音楽家にもなったことがない人たちであった、ということを話していた。

私もそれに真似て、というより事実だが、「世の大人たちが文武両道であれと言うから文武両道にはなってみた。しかし実際に蓋を開けてみれば、文武両道になれといっていた大人たちは、こぞって文でもなければ武でもなかった」という話をしている。

つまり子どもたちの夢を止めるのは社会適合している大人である。

故に私は「欲を大きくする」とか、「欲を大切にする」、「感性に磨きをかける」といっているが、これはすべてそんなつまらない社会適合世界は置いて、あなたが精神的に抜け出た存在になってしまえ、ということである。

私の創作もつぶやきも、すべてはこの「感性の完成」から来ており、すべては自分の欲を磨いたとこから来ている。また欲を磨くということは自分の思っていることを認めていく作業に他ならず、自分を受容していくことに他ならない。そう考えれば、世の中で欲が原因で起きた犯罪、事件、こう思われているのは、突き詰めると「欲を殺されていた」故に起きたものであることが分かってくる。何度も繰り返してはいるが、人間自分の欲を満たすことができたら、なぜ人を殺さなくてはいけないのか、という命題が生まれるのである。故に殺人が起きるのは"殺人されているから"、であり、その根本解消はそれぞれの人間の欲の蘇生であることに他ならない。ここが世の中では認められず、時として不適切な治療が行われてしまう。

うつにいる人に対して努力が足りないということはその典型である。言い換えてみようか、「あなたはうつで努力が足りない、だからもっと欲を殺せ」ということである。そもそもあなたたち自体、社会不適合になってはいないではないか、ということである。

このようにうつが進んでいる、という認識はやはり世の中と逆をいくものであり、世の中と逆をいくということは善と悪の入れ替えであり、精神の深化である。

私たちから言わせれば、一番努力したのはあなたである。

すかさず1番は言い過ぎじゃないか、という問いかけがされそうだが、それも世の中を比較相対で捉えている神経症性の業であることに他ならない。世の中が比較相対ではなく相互援助でできているとするならば、つまり世が人と人との繋がりと関係性でできているとするならば、1番頑張った人が複数存立することは可能なのである。これも他者と自分を比較相対で比べる神経症性、一つの社会適合的価値観から来る言葉になるのである。

仏教では円相(えんそう)といって、究極の悟りを現した内容は円で現される。つまり先に述べたように人間世界が比較相対的なあるいは数値的な、優劣でのみ語られるのは「直線的」な理解である。しかし世の中が人と人との関係性、無限の螺旋としてできているとしたら、つまりは「円」で現される関係性だとしたら、そこには始まりも終わりも存在しないのであり、一つの完成された世界である。

このように世界にはまだ見ぬ奥行きがあり、深みがある。うつはそこに差し掛かっている現象と私たちは捉える。なぜならあなたは厭世と虚無をすでに体験したのだから。

ぜひあなたの感性に磨きをかけてほしい。あなたの欲を大切にしてほしい。私が言いたいことはそれだけである。

また日光を浴び、規則正しく生活し、社会復帰を目指す、これらはどれも社会適合的価値観を抜け出していないものであり、まだはじめの一歩も踏み出していないような教えに聞こえる。

そもそもうつというものが望ましく落ち着き、本当の意味で治癒する(そのためにはあなたの感性を大切にし、"遊ぶ"ことと"休む"ことが大切と言われる)ことができたなら、人は自然と「何もないのもつまらないし、ちょっと仕事にでも行ってみるか」となる。またそしてそうなった人にはうつは再発しないと言われる。文字にすると簡単だが、この休息期間中にアウフヘーベンが起きたのである。

つまり時としては「好きなだけ夜更かししてください」「どこにも行きたくない時はずっと家に篭っててもいいです」というアドバイスが本当の意味でクライアントのうつの回復を援助するのである。

しかしこれができるのはやはりうつを一回脱け出した、人であるから、現に精神科ではこの社会適合的価値観のアドバイスが途絶えることはないのである。

世界はそんな安っぽいものではない。

人間存在はもっと大きく、豊かなものである。

ぜひあなたという尊い人間の尊厳を、理解してもらいたい。

いいなと思ったら応援しよう!