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陰キャを極めた陽キャ.

私はここ最近色々な人と話しますが、

だいたいの人と話しても常に何かふざけています。

何だかふざけていて、ひょうきんなので、

真面目な方からしたら不快に思われるかもしれません。

ここ半年のうちに会った人に聞けば、

だいたいの人はAoyって「なんだか元気だよね」とか、

あるいは「ちょっと調子に乗ってるよね」と言われると思います。

しかしながらこれは1人の人間として明確に言いたいことなのですが、

私は根っから陽キャではありません。

むしろ執拗なくらいに社交不安を持ち、過度な緊張をして、それでも言葉に詰まってたらしょうがないから、心を開け放して人としゃべると結果的にひょうきんになってる、という感じです。

つまりは私は根っからの陰キャ、体質であり、

そこに陽の要素は一つもありません。

断言しますが、一つもありません。

私と話してよくよく見れば分かることですが言葉のどもり方、反応性の早さ、敏感さ、ひきつった笑い、

これらのどれも世間でいう陰キャ要素に該当されます。

ただそれが極み貫いているだけです。

よく陰キャの人は自分を変えて陽キャになりたい、イメージチェンジをしよう!などと言っている人がいますが、

私の場合はそういう方向に舵を切りません。

むしろその逆で、

とことん陰を追求します。

そしてとことん陰を追求していくと、あるところで最早陰と陽の境目がなくなります。

その結果陽キャ的に見えている、というだけなのです。

つまりは陰を極めたから陽に転じている、ということで、

最初から陽、だったわけではないということです。

そして逆に言えば初めは"陽"だった人が、とことんそれを極めて"陰"に通ずる、とも言えます。

重要なのは初めは人それぞれ違うけれど、それが煎じ詰めてられていくと、結局皆同じところに出る、ということです。

そしてここからは一つの洞察なのですが、

陽キャ、と言われる人のその内実をしっかりと見つめますと、

"他人に強要するノリが強い"、"人を見限る"ということが分かってきます。

つまりは自分の身内の人たちだけが「仲間」であり、その外にいる人たちは排斥しても構わない、

こういった特性があるようです。

世間で言われる"喧嘩"もここから生み出されている、と言えるでしょう。

でははたまた一方で、"陰キャ"という人たちの内実を伺ってみますと、

"痛い"    "ノリが一人歩きしてしまっている"

このような特性が認められます。

つまり何か陰キャの方々が「心が動いた」ということを話していたとしても、その話題は決まって"自己完結型"になっていることが多く、そこに私たち"他者"が介在できるポイントは一つとてない、ということが特徴です。

それが独り歩きしてしまっていて、「痛い」という印象に転化されているということです。

ここまで陽と陰の二つについて見てきましたが、

この陽と陰に共通して認められる特徴があります。

もうお分かりになられますかね。

それはどちらも"他者の情緒への理解がない"この一点に集約されるのです。

つまりは陽キャの人たちは自分たちの"身内"だけに価値を置くのですから、自分たちの内輪が完成されていればいいわけです。

そして陰キャの人たちは自らの感情のみにフォーカスするのですから、自己完結してればいいわけです。

この両者に認められる特徴は「本当の意味での他者の存在がない」ということに帰結するのです。

つまりここではあえて大胆な言い方をしますが、

道半ばの陰キャ、道半ばの陽キャ、この両者は、本質的に同じ価値観を持つ人間であって、そこに他者の存在を認める、という"対話的要素"がない人たちである、ということが導き出せるわけです。

無論だからといってこれらの人たちに存在価値がない、と言っているわけではありません。

仲間内でワイワイやることはいいことですし、

自分の考えを持つ、ということは素晴らしいことです。

しかしここで私が言いたいことは、

「それだけでは幸福な人生を過ごすことには繋がらないよ」ということなのです。

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