「読む」という負荷
ハロウィンの日に札幌に転勤して帰ってきた(それまで北海道の真ん中にいた)友人とカラオケに行ったら、風邪を引いてしまいました。
意識が朦朧とする中、書いています。
何度測っても熱はないのですが、熱っぽさと気だるい感じがあり、咳が出て、鼻水も出ます。そして何より急激に気力が低下しました。
あれ、風邪ってこんなにメンタルにも来るんだ、と思いました。風邪がなんで風邪と言われるのか、それはメンタルつまり情緒面に暗い影を少なからず落とすから風邪というのではないか、とか変なことを考えていました。
ハロウィン、人すごかったです。札幌にはすすきのという繁華街があるのですが、そこは避けました。すっからかんになった札幌駅付近のカラオケで友人と遊びましたが、どこでもらったのか..。
あと、気力の低下と共にここ一ヶ月というか、自分の私生活みたいなものをよく考えることがあって、というのもこの前も休憩を挟んだように日頃少し疲れていて、それが塾のバイトだとか大学の授業だとか、様々原因はあると思っていたのですが、あとブログもかなり自分のできる最高出力のもの(とくに[創作]シリーズなんかは)を書いているからとも思ったのですが、
最も根源的な疲れの原因は、【自分を変えよう】としていることなんじゃないかなあ、と思いました。思ったというか、気づきました。
というのも自分は本を読むのですが、本棚が壊れてしまって、今は床に読みたい本を山積してあって、興味関心に沿って本を手に取って集中して読む、ということをしているのですが、結構積んである本が思想書とかうつについての本だったりとか、心理学概論の本だったりとか、超有名文学だったり(超有名文学って暗い話が多かったりする)で、結構"負荷"がかかるんですよね。
もう習慣になっていたつもりだったので気づかなかったのですが、尊敬する精神科医の方は人格形成をそういう本の本質の部分を自分の内に受け取ることで鋭くなっていく情緒面の深化というようなものを成長、というような趣旨(勝手に要約したものです)の発言をされていて、それで自分も色々な本を読んで「ああ」とか「うわぁ」とか言って心を動かしていたわけです。
ところが最近になってそれって「最も負荷のかかる作業なんじゃないか」と思いまして。
本を読んで心が動く、あるいは自分にない一部を本から受け取り自分のものにするって、ある意味では自分を打ち壊す、自分を拡張する行為だと思います。だからそこには一面の厳しさがある。
それを日夜問わずやっているということは、常に何がしかの負荷をかけている、ということも言えなくない気もしました。
逆に言えば"負荷"がなければ作品は生まれない、ということもできるかと思います。
とにかくそのようなことを思って、「ああ、自分って頑張ってたんだなあ」と思いました。
今更か、って感じなんですが、あまりに習慣になっていたため気づかないでいました。
もしかしたら風邪もそれに気づけ!って言ってたのかも笑
本を読んで心が動くということは、ほんとうに、客観的に見れば一瞬で分かりにくいことだと思います。でも内面では大きな改変が起きている。時としてはそれが自身の根源的な価値観を浮き彫りにすることだってある。それを毎日やるっていうことは少なからず心に負荷をかけることであって、負荷をかけるってことはエネルギーを要するということだと思います。
もしかしたら世の中の創造的な仕事や、世の中の価値を生み出すサービスやコンテンツの根源はこれなのかもしれません。
【創造】の前には必ず【感受】がある。
【感受】がなければ【創造】は生まれない。
とするならばそのお金にもならない【感受の瞬間】は、何にもまして尊いものではないか、と思います。
最も負荷のかかるこの作業を、私はもう一度再発見した気分です。