[創作]ままなら
白色の太陽の明るさがすべての光の反射と色彩を持つように、つまり白色の太陽からすべての色が生まれるように、私は1人の人間としてその本願のような人間でありたいのであり、それが醜く汚い自己であったとしても、それをこそ認識する人が美しいのだという真実と共に、私は今日もこの街の雑踏と喧騒の中を縫う。
疲れ果てた。疲れ果てた私は、その朦朧とする意識の中で言葉を紡ぎ出し、朦朧としているが故に意識と無意識との境目が曖昧になり、そこから無意識の夢がぱちぱちとはぜ、このような言葉を書かせる。
「あなたは何か違う気がする」
女の子が自分に興味を持ってくれる。
「それはみんなと同じだということを認めているから。」
僕は答える
【論文】
時として人と違うフリをした男に、女性が付き纏うという事象は古今東西起きてきた事象であり、それは見慣れた景色である。
しかしその見慣れた景色は、ただ見慣れているというだけで、その本質を誰も理解してはいない。ではその本質とは何だろうか。
結果は人と違うフリをする男とそれに追随する女には本質がないことが通底しており、人と違うフリは寂しさの表れであり、人と違うとかに惹きつけられるのもまた、寂しさの誤魔化しである。
故にもし本質-つまり真実がある人間が極小数として故に燦然と輝く太陽のように現れたとして、それはだいたいにおいて一目瞭然であるので、【そこに行きたい】という気持ちを彼女の心に誘発する。
しかしそれは人と違うように見えて、それは事実なのだが、その人は人と同じを見つめ抜いて、没個、無我に至ったために、人と違うオーラが派生している。
人と違う本質のない前者
人と違う本質のある後者
ここの境目はどのように現れるかというと、談笑に現れる。
前者は絶対的に笑えず、
後者は絶対的に笑う。
これが人と違うを語る上での明確な区別である。
【2024年9月28日】
「俺そんないい人じゃないっすよ笑」
「そんなあなたがいいんです。」
「困ったなあ、生まれてこのかた、しばらく人目につかないところにいたからなあ。」
「顔もかっこいいし」
「顔はね、よくても、それを認めるほどの社会じゃない。自分の顔がよくてこれまで生きてこれたなんて言う人がいたらね、それは一つはものすごい謙虚な人か、もう一つはこの世の破壊だよ。」
【論文2】
この書物に嫌悪感を抱く人間は非世代性であり、この書物に納得感と愛を観ずる人間は世代性である。
非世代は数値的他者批判、
世代は自然的自己受容である。
数値的、コンピュータ的、頭的理性に頼る場合、必ず他者批判と軽蔑を生ずる。
自然的、大自然的、心的理性に頼る場合、必ず愛と尊重を生ずる。
これを見て嫌悪する人間、勝手気ままにどうぞ。
これを見て苦しむ人間、あなたこそ本望。
心はあるが、その心は大自然に帰依すること。故に心ありながら心無し、これが正しく、最初から心がない、この発想は禁欲と人間の破滅である。