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鋭くて太い感性

浄土真宗では自身が悪人だとハッキリ知らされた時、阿弥陀仏という仏の救いにあずかる、と言われる。

悪人だと知った人は、善になる。これを色々な場合に当てはめてみると、いじめというものを人は知った時いじめをしない。というのも、いじめとはいじめる側の子どもの心にベッタリと無価値感があって、そこから目を背けるために人をいじめ、比較相対的に自分が優れた存在であると思おうとする、という構造だという。

で、これが分かるといじめは起きない。これが分かった人はいじめの酷さを分かった人だから。つまり悪人だと知らされた人は善になる。つまり、いじめと世に言われる悪人、ここを掘り詰めていくと彼らはいじめがどういうものかを理解していないし、犯罪がどういうものかを理解していないでそれらの諸々を犯している。

悪を知った時、人は善になる。浄土真宗では悪人と知らされた自己を機の深信(きのじんしん)と言い、そんな自分が救われた世界を法の深信(ほうのじんしん)という。つまりここでは少し噛み砕いた言い方をするが、悪になりきれたとき善になる、という絶対矛盾の存立が浄土真宗の本質となる。

これを当てはめると世にいう毒親や、いじめの問題、これを犯す人たちに「いじめとは何か」、「毒親とは何か」を理解している人はいない。何度も言うがいじめは自身の無価値感から目を背けるために他人を利用する行為であり、毒親は自身の無価値感から目を背けるために子どもに自己実現の肩代わりとなってもらうという構造である。このいじめは無価値感から目を背ける行為であり他人を利用する、という酷さを理解しながら、じゃあ私はいじめをします、という人はいない。理解をするとは酷さを知るということ。つまり悪人だと知るということは罪を知るということ。悪の恐ろしさを知らされた人間、つまり悪を見抜いた人間は必然的に善への気持ちが起きる。だからいじめと毒親と諸々の機能不全は、彼らは機能不全という自覚がなくやっている、ということになる。

諸々の苦しみを耐え抜いた人からすれば、おそらく「残念だが、彼らは自分のやってることに一つも気づいていない」という失望と軽蔑とトドメの無関心が起こる。

無関心ゆえにもうそこには用はなく、主権は本人が取り返している。

仏教では無間地獄(むけんじごく)というものが説かれるが、これをそのまま当てはめると「いじめというものを分からずいじめをし、毒親というものを分からず毒親になる」この無理解を無間ということもできる。また浄土真宗では真実に暗いことを無明(むみょう)と言って、無明の結果として地獄に堕ちる、と説かれる。

私は浄土真宗に人を誘いたいわけではない。ただ人の心のメカニズムを理解する上で、浄土真宗や仏教(もちろん他の優れていると言われる教えなど)には、通底する共通解のようなものがある。

何が何だかわかってない[無明]
悪を知らずに罪を犯す[無間]
悪を知った時善となる[二種深信]
心のメカニズムに目覚める[悟り]

すべてが合致するのである。

また仏教では1番恐ろしい人間は罪を犯していながらケロッとしている人間である、と説かれる。またお釈迦様の教えは警鐘乱打(けいしょうらんだ)と言われ、「そなたらはそのままではとんでもないことになるぞ」と常に人々に喚起している、と言われる。

また私は毒親の根本性質は「満足して死ねないこと」これ一点にあると1年以上前から発言しているが、これを当てはめてみるとすると、

「そなたらはいじめというものを知らず(罪を罪とも知らず)、そなたらは毒親というものを知らず(悪というものを知り抜かず)そのままでは死ぬ時に絶対に満足して生を終えることはできないぞ(なぜなら他者に自己実現を転嫁する=己で自己実現を一切してない=故に生きてない=死ねない)」という構造になるのである。

お釈迦様は気づけ、気づけ、と言われていると聞くが、では気づいた人はどうなるのか、それが悟り(心のメカニズムの理解)であり、己を知る道がまさに仏教の言う求道(きゅうどう)となる。仏教の昔の名が高い高僧は「仏の教えを聞くほど
自身の心を見せつけられる」という趣旨の発言をされているが、これこそが求道、心のメカニズムを知ることである。

話は変わるが、うつの治癒において大事だとされるのは欲望の破棄ではなく、欲望を大きくすること、であると言われる。そしてこれは欲を大きくすると言うのは、無価値感を解消するということに他ならない。つまり無価値感の内実は「欲を殺されていること」である。つまり自身の欲が満たされているいじめ加害者も毒親も存在はしない。ということは、真の解決法はその人の欲を大きくさせること。そしてこれが自分で思うことを発信する、またはカウンセラーにうんと話を聞いてもらう、このことに他ならない。欲を小さくするのではなく、大きくする。なぜなら欲を小さいままにしている状態が殺されている状態であり、生きていない状態であり、いじめをする心理であるから。だから本人の気持ちをうんと聞いてあげることから精神医療ははじまる。またそれを自身でやっているのが情報発信に該当する。つまりはそれらの情報発信は間違っていない。感性を破棄するのではなく、そのまま感性に磨きをかける。そうするとあるところで完成した、というところがある。そこで「鋭くて太い感性」が実現する。こうなった人にはうつはもう再発しないと言われる。

HSPという気質を私は持っているが、HSPなのにも関わらずこのような常時偉そうな口調をとっているのはそこから来ている。つまり感性を磨いて磨いてその結果あるところでブレイクスルーしたので、繊細でいながら頑丈な心となった。故に私はあまりHSPというものを語ってこなかった。HSPというものが生きづらいということで語られることが多いが、HSPでもまったくそれらは気にならない次元があるからである。

このように感性に磨きをかけていく、自分の欲を大切にする、欲を大きくする、このことがまわりまわってその人の心を丈夫にし、また満足を得る。満足を得た余りとして、他者に親切ができる。つまり他者への親切は「人のために」という道徳は「誰のためでもない」道徳論であって、親切は自発的にされるものである。幸福の余りとして、親切が「結果的にできる」。

何度も繰り返すがそのためにはあなたの感性を鋭くし、あなたの感性に磨きをかける。欲を捨てるのではなく、大きくする。そしてある時完成を迎える。

仏教では三輪空「さんりんくう」という教えが説かれ、それは親切に関しての教えであり、

一 私が
二 誰々へ
三 何々をした

この三つを空(くう)じなさい、つまり忘れなさい、と説かれる。

ただこれの最も本質的な部分は、もうお分かりかと思うが、「自身の幸福の余りで親切をした人は必然的にこれらをすでに空じている。」故に三輪空の教えの本質はあなたが幸福であること、ということになる。そして何度も言うが、それは欲を大きくするところにある。

またうつの治癒で感性を鋭くして一つの次元に脱け出た時、人は大きな自然と繋がる感覚を得る、と言われる。それは太陽に例えられるもので、ユングが集合的無意識と呼んだものに該当し、そこには大自然原理があり、ここに身体がつながっているため、心は必然的に楽になる。ここがうつが再発しない、というところに繋がる。

この大自然に繋がった人は必然的に大きな流れ、に心を委ねているので、再発のリスクがない。浄土真宗では救われた後の人の幸福を無碍の一道(むげのいちどう)と言い、これは心に一つも障害がない幸福、と言われる。まさに大自然原理に一度ノイローゼによって戻った人たちの大きな流れに委ねている安心と合致する。

このように心のメカニズムと教えは連動しており、決して私たちは無理解だけの世界に住んでいるわけではない。私たちは私たちという個人を通して、世の中の優れた教えを学び、また学びが身になるということはこのように自由自在に教えを汎用できることに繋がる。心の世界のことは理解するまでが難しいけれど、決して分からないものではない。私は何度も言葉を変え、この心のメカニズムを述べていく。

欲を大きくすることで、(悪人になることで)人は善となる。(鋭くて太い感性)

浄土真宗の無碍の一道(むげのいちどう)の世界の心のことをまた別の言葉では煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)と言われる。これは煩悩(悪)が菩提(喜びのことを指す)に変じるということ、つまりは欲を大きくして感性を鋭くしていった先に、それが善と変わってしまうこと、これが煩悩即菩提の本質と言える。

浄土真宗の悪人正機(あくにんしょうき)「悪人こそが救われる」という意味は、このような眼目を含んだ奥が深い教えである。決して「悪いことをするだけしろ」というような低俗な教えではないのである。

また先述した通り悪いことをしてしまう、これの本質はそれが悪いことだと分かっていない、ということであるから、やはり悪というものつまり心のメカニズムを知った人、その「悪人こそが救われる」のである。

先人の知恵と耳を傾けてくれる方の素晴らしい歴史の繋がりに、感謝したい。

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