新聞を配達してくれたおじさんと、今日会計をしてくれたコンビニの店員、この人たちと私の生活とが必ず延長線上になくてはならない.
新聞を配達してくれたおじさんと、今日会計をしてくれたコンビニの店員、この人たちと私の生活とが必ず延長線上になくてはならない.
働く、の語源は「はたをらくにする」から来ていると聞く。
はた、つまりは他者あるいは"周り"を楽にしているのだと。
つまり目の前で会計を済ましてくれるコンビニの店員さんと、今日私の家に新聞を配達してくれたおじさんと私の生活が、本質的なところで同じとこに属していなければ私が今やっている仕事つまり大学は、偽物になってしまう。
無論大学で教鞭を取る教授がこのようなことを考えて授業しているとは思えないが、しかし実際のとこはそういうことだ。
私のうつ病はそこから来ている。
「自分の仕事が何か独立したものである」この感覚がいわゆる毒親の毒とも言え、老害の害とも言え、社交不安の不安とも言える気がする。
気がするというより、実際にそうだったのだ。
仏教や学問、哲学を学んでいると、"すべては関係性でできている"、と聞く。
つまり何か一つの仕事は、決して独立した個人機関なのではなく、本質的にはみなその深部あるいは中央部で連帯をしているものである、というのが、本来の"はたらく"の意味だと気づかされた。
この今私がやる勉学と学問は究極的には新聞配達をしてくれるおじさんあるいはおばさんであり、
この私がやる読書はレジで会計をしてくれるコンビニの店員さんである。
ここを見落として、何か独立した、独善的な、極めて個人の、誰からも頼りとされない、仕事、と間違った認識をするところから、諸々の身体不調や毒、害、機能不全、差別、殺人などが起きているのではないか、と推察される。
私はこれを忘れていたから、
大学が苦しかったのだ。