#2 当たり前の日常
東日本大震災から早11年を迎えた今日。そして未だ猛威を振るうコロナ禍の今日。そして当たり前のように迎えた今日。
ここ最近、常々考えていることがある。「当たり前の日常」ということについて。当たり前の日常とは?と聞かれた時の答えは人それぞれ。広義の意味か狭義の意味か。昨日を意味するのか。今日を意味するのか。それとも、これからの未来を意味するのか。
「当たり前の日常」が失われる、あるいは変わったとは、それまでの暮らしが一変することを基本的には指しているはず。
当たり前とは、それを繰り返されることによって構築される。ということは、当たり前が塗り替えられて、一定期間経てば、それは当たり前となるだろう。今この時も常に「今の状況」は、当たり前。過去の日常はあくまでも過去。話がだいぶややこしくなって脳が考えるのをやめ始めた…。
ザツニハナシマトメマス。
私が考えるに「当たり前の日常」は、人それぞれであって、普遍的なものではない。日々更新されて「当たり前の日常」は変化する。
震災から11年経って、コロナが流行し始めて、今がもはや「当たり前の日常」ではないと言い切れるだろうか。深く考えてみると、少なからず私はそう考えている。これが「人間の慣れ」というもの。恐ろしや。常に変わりゆく日々を受け入れて、新たな日常を創って行こうと思う今日この頃。それは人間の業。
もし、この記事を読まれた方で、気分を害された方がもしいらっしゃるのであれば、大変申し訳ございません。あくまでも、個人の日記という形でやらせてもらってます。お許しください。
では、また次の機会に…bye。