彼女の願い 2476文字#シロクマ文芸部
『最後の日、ですね。
………わがまま、言ってもいいですか?』
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「………もう、朝か……」
俺は寝相で、はだけた着物を着直し、まだ寝起きで重い体を無理矢理に起こす。
洗面所へ向かって顔を洗い、髪をとかし、整えていく。
ここまでしてくれば段々と目は覚めてきて俺はテキパキと動けるようになる。
最後に、俺は制服に袖を通し、今日もいつも通りに仕事場へと向っていく。
時は明治。
明治時代に入ってから、江戸幕府を倒した各藩の藩兵から選ばれた邏卒(らそつ)と呼ばれる警察官が誕生した。
俺はそんな組織の下っ端として日々行動している。
そんなある日の仕事終わり、先輩の邏卒から、お気に入りの芸者が居るから一緒に行こうと誘われた。
俺はあまり乗り気ではなかったが、奢ってくれるというので、しぶしぶ付いていく。
そこで出会ったのが彼女だった。
彼女は、先輩が憧れていた芸者と一緒に訪れ、俺の隣についてきた。
あまり女性に免疫はなかったものの、それを顔には決して出さない様努めた。
けれど、そんな気持ちを振り払う様に、彼女との話は心地よく、面白かった。
彼女の名前は、『華風(はなかぜ)』という。
透き通るような肌、綺麗な髪。そして、とても良い香りがした。
そんな、会ったばかりの彼女が言った。
「……あの、お願い聞いてくださりますか?」
「お願い?何です?」
「私、あと一週間でここを辞めるんです。いわゆる身請け、という奴です」
「そう…なんですか」
「はい」
「それで…お願いというのは…」
「身請けされるまでの一週間、私と共に過ごしてはくれませんか?」
「……え?」
「お代は請求しません。ただ此処に来て、私とお話をして欲しいのです」
「…………、どうして、俺なんです?俺と貴方は、今日初めて会ったばかりですよ、」
「貴方が良いのです。……和政(かずまさ)様」
俺は、彼女の願いを聞き入れた。
理由はイマイチ腑に落ちないが、あと一週間で身請けされる彼女の願いを俺が叶えられるなら、叶えてやろう、そう思ったのだった。
翌日から彼女の元へ通うことになった。お店は大丈夫なのかと聞いたら、彼女は上手く丸め込んだらしい。
「有難うございます。私の勝手な願いを聞いてくださって」
「いや、俺に出来るなら、しようって思っただけだから…」
俺がそういうと、華風は嬉しそうに笑った。
会っても、二人でただ話をするだけ。
相変わらず隣同士に腰を下ろしているだけだ。
何か起こる事などない。
気づけば、あっという間に最終日。
最後の日となったのだった。
「最後の日、ですね。
………あの和政様…最後に……わがまま、言ってもいいですか?」
「……わがまま?……なんですか?」
「…今日………、私と……一夜を共にしてくれませんか……」
「…………えっ……………そ、それは、あれですか?
朝まで、一緒に過ごすということ…ですか?あ、あの…それは、身請けをされる華風さんと一夜を共に過ごすなど、
いけません…」
「……っ私は、捨て子だったのです。」
彼女は、ふっと、静かに、自分のことをポツ、ポツと話し始めた。
「そんな私を助けてくれたのがここの
ご主人達です。私は小さい頃から舞や教養、嗜み、礼儀を全て教わりました。
ご主人達は、私をとても大切に育て、愛してくれました。
……身請けを受けたのも、全てはご恩をご主人達に返す為……ただ…、その為だけだった…」
彼女の手が、静かに俺の右手へと伸ばされ、置かれた。
彼女が触れたのを感じた時、俺の心臓は早鐘を打つように早く鳴り始めた。
「………………っ!何故、俺なんです。男だったら、沢山出会っていたでしょう?……っなのに、何故俺なんです……?」
「………好み、だったのです」
「…………えっ……」
「和政のお顔、お話すると少しずつ分かった性格。考え方、仕草……全て……、私の好みの方だったのです……」
「…………………っ……」
「お願いします。和政様……、私の今の言動が、和政様のお心を傷付けている事は十分承知しています。
けれど……、私は……、初めての一夜を共にする方は……、私は………和政様が良いのです………」
彼女は、いまにも泣きそうで、切実そうだ。
………けれど、そこに自分の理性が顔を覗かせてくる。
俺だって華風の全てが俺の好みの女性だった。
初めて会った時から、華風は憧れの、恋い焦がれる事になる女性だった。
俺の、一目惚れだった。
「………………ごめんなさい、和政様。
やっぱり、一夜を共にというのは辞めましょう。帰るお支度をしますね」
そう言って立ち上がろうとした華風の手首を俺は掴み、畳の上に押し倒した。
「…………っ、和政様………っ」
「嫌だったり、痛かったり、怖かったりしたら直ぐに教えてくれ。俺は決して華風を傷付けたりしたないし、したくない。華風、俺と一夜を共にしてくれるかい?」
俺の言葉を聞いた華風の大きくて丸い瞳が陽炎のように揺らぎながら、俺の首のところに両腕を回して、静かに言った
「……………っ、ありがとうございます…っ和政様………」
慕っているとか、恋い焦がれているとかそんな直接的な言葉は紡がない。
紡いではいけない。
ただ俺は、華風が傷付かないように、悲しまないように、優しく優しく触れていく。
そして、最後に一言、俺は言った。
俺の下にいる彼女の耳に自分の顔を合わせる近づけて……
『幸せになれ……華風……』
と。
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華風を身請けした男は、誰に聞いても優しくて聡明な男性の御曹司だった。
きっと彼のもとでなら、華風は幸せに暮らせる。心から、そう思う。
「和政〜!見回りいくぞ〜!!」
「はい!今行きます!」
建物の中から外に出る。
春の麗らかな陽と心地の良い風が吹き抜けていく。
あの一夜のことを、俺は一生忘れない。
女々しいことをいうなら、華風が身請け先で悲しい思いをしたなら、俺のもとに来ればいいと思ってる。
そしたら俺は、この春の風の様に、優しく華風を抱き締める。
でも、そんな必要がないくらいに、愛されて欲しいとも思い願っている。
華風、どうか穏やかに。
幸せに……。
俺は静かに、心のなかで、そっと、彼女の幸せを願うのだった。
終わり。