間のびするくらいが
家の窓から見える高層マンションに明かりがつくようになった。と言ってもまだ、4割程度だ。入居者を随時募集中といった感じだろう。駅前の再開発で新しく建てられたマンションだが、ひときわ大きな迫力を持っている。そびえたつと言った方がいいかもしれない。
母は「駅の目の前なんて、絶対に落ち着かないから住みたくない」と、絶対に住めるはずないのに言っている。人は遠い存在のものに敵意を見せる。
駅から歩ける距離にある我が家は、家からは車の音さえほとんどしない静かな場所にある。僕はその歩ける距離こそが贅沢であり丁度いいのだと長年暮らして考えた。駅から近いということはつまり仕事場とかそういう目的地からも近いということで、次へ次へと間がないように感じてしまう。
間を大事だと思ったのは最近だ。間の中では、音楽を聴いたりすることが多いのだけど、本当だったら全情報をシャットして考えを巡らせる時間にすべきなんだけどと考えている。
仕事をするようになってから学生の頃と比べて、目で、耳で、多くの情報を収集するのでよく息がつまり、気持ちが沈むようになった。それ以来頻繁に間を欲する。詰まっていない空、景色が大きく見える窓、無機質な街道。それらすべては間になっていく。
通勤中、2駅ほどの移動がある。終点駅から乗るので座ることができるのだが、5分と時間が短いので特段やることもない。その時間にぼーっと街を見ることが多くなった。それ以上でもそれ以下でもない情報は心にゆとりをもたらす。間を無意識で見失う世の中において、頭が空っぽになる朝の時間。息を大きく吸っては吐くことができて、降車への準備体操になる。降車したら会社に向かって歩き出す。その途中で徐々に間が薄れていって社会に参加をしていく。
次へ次へと情報やモノが溢れるとその距離が近くなって、間もなく追いかけてくる。近くて便利なのはコンビニだけで、やることが隣接してたら文字通り、息づく間もない。そんな過ごし方に気づかぬうちに染まってきている習慣は恐ろしい。
窓の外のマンションは明かりがぽつぽつ消えていく。明かりが外に漏れてしまうからブラインドを閉めた。全面に白に変わり、夜風で息をするように揺れる。揺れて生まれるすきまは大きくなったり小さくなったりを繰り返す。一点を見つめると昔のことを思い出せる。
家族旅行で子供の頃に行った石垣島の海の中にいた、青い小さなルリスズメダイのこと。小学校にあった図書館の本棚、ラジオ体操に行ったらもらえたおもちゃ。においが薄れかけてきた思い出はひたるのに心地よくてながーく時間を過ごしている錯覚になる。引っ張り起こさなくても生まれる思い出を見つめながら、気が付くと目をつぶり始めていた。