転職した話。
変化が苦手な人が迎えた変化の年
昨年の終わり、長年勤めた職場を離れることにした。
詳細は明かせないけれども、続けられない理由ができてしまった。
けれどもずるずると決断を先延ばしにし、決めたのは年度末近く。
前職は、児童養護施設の職員。
環境を変えることがあまり好きではない。
どうしても必要にならない限り、できれば変えない道を選ぶ。
地元を離れたのは、親から離れるためでもあったけれど
何よりも求人がなかった。
環境が大きく変わる負荷があっても就きたかった仕事だった。
学生時代に近い職種のアルバイトを経験して
もっと長く、密に関わりたいと思って切望した。
それでも、辞めた。
辞めたくない気持ちもあった。
けれど、続ける選択肢はもうなかった。
起きていた事。
長年、という書き方をしたが17年弱。
実は、児童養護施設を含む福祉業界ではこの年数を一か所でというのは
長い。
平均勤続年数一桁台はザラ、離職率が高い、それが福祉系。
それでも、元の職場は勤続年数が長い人が多かった。
半数以上が10年超えだった。
辞める人が少なかったので、求人を出さない年があったくらい。
でも、それも数年前までの話。
ここ2~3年、これからって時の若手の離職が続く。
最近はキャリアアップのため転職は当たり前という考えが一般的とは言うけれど、もともと離職率が高い業界なのでキャリアップが理由ではないことのほうが多い。
元の職場は管理職という仕組みのない、珍しいところだった。
一応、暗黙の了解というやつで管理職にあたる人たちはいた。
自分はそこから外れていた(17年の一応ベテランでも)ので、
後輩たちと管理職との、退職に至るまでの細かなやり取りは知らない。
しかし、後輩たちの苦悩をそこそこ近い位置で見聞きしていたから、退職が発表されても驚くことは少なかった。
若手が続かない、辞めるのは、フォローがなく見切りをつけられたから。
ベテラン、中堅どころが辞める場合、変化に順応できないことが多い。
入職したころと前後して、児童養護施設の形態は大きく変化していた。
昔ながらの施設のイメージそのままの大舎制から小舎制への移行が進んでさらに家庭に近い環境、生活単位へという動きが加速。
小舎よりも小規模、地域の中へ。
定員が8名以下の、施設内小規模グループ、地域の一軒家でのグループホームが奨励され、増えだした頃。
生活単位を小さくし、より職員と密接に関われることで虐待を受けた子どものケアが丁寧に行える。
ちょうど耐震基準の問題も起こり、調査で建物の老朽化や耐震基準漏れなど判明したところも多い。多くが戦後に設立された社会福祉法人なので、竣工が60年代ごろだったりする。制度的にも建物の耐久上でも建て替えの必要性が高まったのだ。建設費用の補助は建物の構造を小規模ケア仕様にし、地域との交流も可能なつくりにすること前提のものが増え、竣工から30~40年を迎えた施設から順に建て替えが進んだ。
一方で、小規模化を図ると職員の必要数が増える。
しかし、それこそ何十年もの長きにわたり、職員の配置基準は変わっていなかった。配置基準とは、ざっくりいうと職員ひとりで子ども何名まで見ていいかというもの。子どもの年齢が低ければ低いほど必要な職員数は多い。大舎制では広い空間で子ども12人名を職員3人で見ている状態から、小舎制では離れた二つの場所でそれぞれ職員1名で7~8名の子どもを見ることになり、残る一人は両方の部屋を行き来する。
数字上は複数配置を謳っても、実態はワンオペであることがほとんど。
当然、職員が潰れる。
小規模化を進めると離職率が高まる、なんて言われたほどだった。
経験年数の少ない若手が潰れていく。大舎制ではベテランも一緒に現場にいる安心感のなかで養育できていたのだろうが、まだまだ自分だけで判断することが難しい経験年数で背負わなければいけないものが大きすぎるのだ。
もともと、勤務体制の難しさから、若い女性職員が結婚などの理由で1,2年で辞める人が多かったので、児童養護では3年目はすでにベテランなんて言葉があったくらいだ。
建て替えラッシュから数年、変化の波がある程度去った施設から聞いたのは、建て替え後の体制変更で辞めたのは中堅以上が多かったということ。
変化についていけなかったことが原因という。若手は入職時からその体制だし順応できたが、変化を受け入れにくい年齢になったベテラン層は頭では理解できていても追いつかないことが多いのだ。
自分もそうだった。
元の職場は入職当時すでに10年以上前から小規模化しており、グループホームを開設するところだった。ある程度ノウハウがあり、ベテランが多く、若手を育成する余力はあったはずだった。若手時代、数年先輩から十分にOJTを受けることができる環境にあってのんびり育成してくれたと思う。
ただしそれは、自分だけ。
同じ職場であっても配置された場所が異なった同期は、1年目からザ・児童養護という勤務をしていた。
その後、異動があり自分もザ・児童養護な勤務になり、年齢が上がれば上がるほど激務になった。
激務になって起きたのは、睡眠の質量の低下。
常に寝不足、休憩もまともに取れない、ワンオペ状態で週の半分を勤務する。
休みは比較的多く給料も同業の中では高かったけれど、その分の拘束時間が長い。
数年のち、大きな問題を起こしてしまった。冷静な判断ができない状態で、糸が切れてしまったような感覚だった。
自分が悪いことはもちろんだったけれど、フォローの薄さが大きかった。一緒に組んでいた職員との関係もかなり悪かった。
その当時の担当から離れ、別な担当で再スタートを切った。
そこから数年がたっての、今回の離職だった。
自分だけの問題だったのか?
再スタートを切る前、元の職場は新たな局面を迎えていた。
老朽化した建物の建て替えである。
計画から竣工まで5年の大事業であり、何十年に一度のこと。
ただし、幸運といえるのは傍観者の感想だ。
ただでさえ激務なのに、管理職には建て替えに関する業務が加わった。
もともと薄いフォローがさらに薄くなった。
経験年数的にフォローがいるか?と思われていただろうが、不十分なマニュアルしかないのに育成を丸投げされてしまったら、助けを求めたくもなるだろう。
勝手に育つ、見て覚えるでしょ、という昭和の感覚で育成されたベテラン勢からしたら、何が分からないのか、困るのか理解できない様子だった。
ベテランは未来を考えているけれど、新任はまだまだ視野が広がっていないし、そのギャップを埋めるのが中堅~の年代。
仕事への姿勢や取り組み方をOJTしながらも自分たちも変化を受け入れていかなければならないのだ。
どんどん、ベテランと新任の溝が深まっていくし、自分がその溝に埋まっていく感覚だった。
また、一緒に養育にあたる職員との溝も深くなっていた。
ケースの方向性について話し合いたくとも、のらりくらりとして自分は関係ないというスタンス。ケースによって関わりの度合いが明らかに違うし、分担している業務量が明らかに偏重している。
そんな仕事へのモチベーションの低い同僚をしり目に、淡々と業務をこなさなければいけない。
業務といえど、生活なのだ。
こなす、という感覚になることへの嫌悪感と心のすり減りが続く。
結局、再度問題を起こしてしまった。
ベテランにたてつくことも増えていたので、ベテランから見切りをつけられたとも思う。
離職にあたり、引き留めてくれたのは力量を買ってくれていた経営側の数名だけ。
一方で業務はきちんと行ってきた実績はあったので、後輩や他部署の人からは残念がられたし、泣かれた。休職期間には不在で困ることが多かったともいわれて、少しほっとした。自分の存在意義があったと思えたから。
担当していた子どもたちを不本意な形で傷つけたことが一番辛かった。
たとえ、自分がいないほうが良い環境になるとしても、きちんときれいな形を取りたかったけれど叶わなかった。
君たちに幸あれ、としか祈れない立場に自分で追い込んだことが悔しく情けなかった。
さて、アラフォーでおまけに問題起こしている者の転職となると難航が予想されたけれど。
前職の関係者から声をかけてもらい、別分野に転職を果たすことができた。
大々的な転職活動は一切なく、水が流れるように決まったので、運がよかったとしか思えない。
転職後、数か月がたった。
前職と遠からず関わりのある場所で働いていることもあり、元職場とのやり取りは少なからずある。
そのなかで、割と中の良かった後輩が休職したと耳にした。
夜な夜な、愚痴をこぼしあいくだらないことで笑いあった仲だった。
この数年で彼の体にストレス性の不調が出ているのも知っていたし、互いに辞め時について考えを明かしたこともあった。
結局、自分はその時の話とは違って自業自得で辞めてしまったけれど。
辞めた後で、慕っていた先輩の知らない側面を知ることにもなったし、見えているようで見ようとしなかったのかもしれないな、とも思う。
自分という膿を出した元職場が良い方向に行くことを願い、こどもたちのために更に素晴らしい環境に変わりゆくことを喜びたいと思う。
そういう器でいたい。
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