多神教寛容論への反駁

  • 近年X(ツイッター)において「多神教は複数の神を信仰しているから多様な価値観を認められる」や「日本は多神教なので寛容」「不寛容な一神教国が八百万の神を信仰している国に対して多様性を主張するのか」のような言説を頻繁に目にする。最近完結した某ドラマでもこれに近しい台詞があったと聞く(私は未視聴)これらの多くは、反イスラームや日本礼賛、反ポリコレの文脈で語られることが多いが、私はこのような言説を目にするたびに「論理的」または「歴史的」観点からとてつもない違和感を抱いてしまう。そのため本稿ではこれらの言説が「論理的」にまたは「歴史的」「宗教史的」観点で考察する。断っておくが私は一介の宗教及びに歴史のオタクであって、研究者でもない。加えて一神教の寛容性を主張したい訳でもない。

詭弁ではないのか?

まずは宗教や歴史的な観点からの考察の前に論理的な観点で考察する。「多神教は複数の神を信仰しているから多様な価値観を認められる」これに関しては典型的な詭弁と言わざるを得ない。そもそも熟考してみれば、”複数の神を信仰している”という事と”多様な価値観を認められる”という事はそれぞれ、関連性があるように見えて関連性がない。つまり、「尿は黄色いからパインジュースは尿である」と言っているのと同じである。他の物に置き換えればこの言説が詭弁であると気づくことができるが、宗教という先入観を持っている状態ではなかなか気づくことができない。私は「宗教は阿片」というマルクスの言葉があまり好きではないが、強ち間違ってはいないのかもしれない。さてこのような詭弁は一神教側でも可能であり、「一神教の世界では人間は神の創造物であって、平等に尊いという価値観が生まれた」などといくらでも言えてしまう。



歴史的に見て多神教国の日本は寛容だったのか?

「日本は多神教で寛容」というのは1868年頃の神仏分離令の布告に伴い発生した廃仏毀釈運動や新興宗教大本に対して治安維持法を適用し、弾圧した大本事件や標準語励行運動やアイヌ民族への同化政策、部落差別、関東大震災における朝鮮人虐殺が反証となるだろう。それに一神教側が多神教より寛容であると主張する気はさらさらないが、イスラーム系王朝であるオスマン帝国のミレット制や啓典の民等の概念を鑑みるに、一神教が完璧に不寛容であるとは言えないだろう。

godとdeity 他概念を比較することの無意味さ

そもそも八百万の神と一神教における神(ヤハウェ)はまったく異なる概念であると考える。一神教における神は東洋思想における「天」の概念に近い、一方で八百万の神はキリスト教の聖人や守護天使 悪魔やイスラム教におけるジンの概念に近い。よって「多神教は複数の神を信仰しているから多様な価値観を認められる」がまかり通るなら「一神教は神以外にも様々な霊的概念の存在を認めているから多様な価値観を認められる」とも言えてしまう。

終わりに

結論としては任意の宗教の寛容な箇所または不寛容な箇所を提示し合うという落ち度探し大会はまったく無意味であり、何の相互理解にもならない。世界の諸宗教には寛容な箇所もあれば不寛容な箇所もある。決して二元論では語れないのだ。
最後にコーラン109章「不信者たち」を引用して本稿を締めさせてもらう

慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において
1 言ってやるがいい。「おお不信者たちよ,
2 わたしは,あなたがたが崇めるものを崇めない。
3 あなたがたは,わたしが崇めるものを,崇める者たちではない。
4 わたしは,あなたがたが崇めてきたものの,崇拝者ではない。
5 あなたがたは,わたしが崇めてきたものの,崇拝者ではない。
6 あなたがたには,あなたがたの宗教があり,わたしには,わたしの宗教があるのである。」

ではまた!


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