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植物を枯らして考えた、命の重みの話と園芸の未来の妄想

わたしがnoteを始めて3週間になります。
植物に関する記事を中心に、いろんな人の投稿をみました。
葉っぱもヒトも色々あって面白いですね。

その中で、特にわたしの心に残ったのが以下の咲く麦茶さんの一節。

“植物の知らなかった名前や姿を知ることに喜びを感じ、更に意識が向かってるのを自覚している。 それが 鉢の数が増え、力不足から萎れさせてしまった植物の名札が積もり墓標のように感じても尚、止められない。”

視界は斜めか裏か後ろか咲く麦茶

この一節が特にわたしの琴線に触れたのは、わたし自身、植物の名札を捨てられずとっておく質の人間で、上のポストを読む直前にも、わが家の葉っぱ墓地に新たな墓標を一つ加えたばかりだったからです。
(鉢植えのエリンジウムの名札でした。夏の終わり、たて続けにやってきた台風でずぶ濡れになり腐ってしまった。R.I.P.🪦)

植物を枯らしてしまったことを悔やむ人は多いようで、note内外で多くの類似のポストを目にしました。
ある人は小さな命への罪悪感を、ある人は経済的な損失を、また、ある人は自分の非力や不注意を嘆いているのでした。

お気に入りのエリンジウムを枯らしたわたしはといえば、
「あぁ、880円もした苗だったのに! たったの3年で枯らしてしまった!!  あの時めんどくさがらずに鉢を家の中に入れておけば!!! 嗚呼またやってしまった、また。。😞」
と深く後悔しました。
それこそ、「もうこれ以上 葉っぱを増やすのはやめようかな」と妻に口にする程に。


実生のアロエ・ディコトマ(Aloidendron dichotomum)
とても気に入って大事にしていたのに、夏越しに失敗して枯らしてしまいました。


が、今、その舌の根も乾かぬわたしの手元には新たなエリンジウムが1鉢あります。

どういうことかと言うと、楽天でクーポンが配られたんですね。
”お久しぶりの人 限定! 3,000円以上のお買い物で2,000円引き!!”みたいなやつ。
67%引きはかなりお得じゃないですか? しかもエリンジウムも330円になってるし(前とは少し違う品種だけど。。)

もちろん、わたしにだって良心の呵責がありました。

「四十九日も済まないうちに次の葉っぱだなんて、前の子がかわいそうじゃないか!」
「いや、でもクーポンの期限が。。」
「あの深い後悔は一体なんだったんだ!?」
「失敗からの学びは確実にあったんです! 次の子は前の子よりも、もっともっと幸せにしてみせます!!」
「クーポンの使用条件は3,000円以上だぞ!残りの2,670円はどう使うつもりだ?? うちにはこれ以上 葉っぱを置く場所なんてないぞ!」
「スペースの問題は必ず解決します!アレとコレをメルカリに出せば、きっと買ってくれる人がいますから。。」

と、独り、脳内会議を繰り返す夜。わたしは薄情なのでしょうか?
そうこうするうち思考は飛躍しだします。


枯らしてしまったエリンジウム
アザミの仲間で葉っぱがトゲトゲ


「もしこれが葉っぱでなく、イヌやネコだったらどうだろう?🐩🐈‍⬛」

”飼育数が増え、力不足から死なせてしまったイヌの首輪が積もり墓標のように感じても尚、止められない。”

完全にアウトですね。
倫理的に許されるわけないし、行政から指導が入るレベル。

わたしはイヌやネコを飼ったことはないけれど、ブンチョウ🐦なら飼ったことがあります。小学生の頃と学生の頃、2度です。
2羽とも天寿を全うしたと思える最期でしたが、それでもしばらくは飯も喉を通らないような状態。
飼い主との付き合いがより長く、密なイヌやネコであればその悲しみは尚更でしょう。
心は深く沈んで、「ちょうどクーポンがあるから、すぐ次のを」なんて心境には到底なり得ません。

わたしの個人的なペット体験談をもう二つさせてください。

ひとつ目はアクアリウム。
社会人になって数年した頃の話です。
メダカのような小さな熱帯魚 数匹と、同じく小さな淡水エビを水草水槽の中で飼っていました。
”飼っていた”とは言っても、わたしにとってアクアリウムは半ばインテリアの一部であり、「部屋の風景の一角として魚を泳がせていた」という程度。
サカナやエビが少ないと空間的に淋しいので、減れば適宜補充していました。
水槽自体は気に入っていましたし、もちろん必要な世話はしましたが中の1匹1匹にまで愛着を持ったり、その死を深く嘆いたりすることはありませんでした。


エビ。死んでしまえば悲しいし、感謝の気持ちもある。
でも翌日まで持ち越したりするようなものでもない。


もうひとつは、バッタとの年越しの話。
ちょうど夏休みの頃、子ども達がつがいのオンブバッタを捕まえてきて「飼いたい」と言うのでした。
「どうせ長くは生きないだろう」と軽い気持ちでOKしたのですが、コレが予想に反して長く生きる。
いつの間にか秋がすぎ、冬になり、歳をまたいでも尚 健在なのでした。
結局、つがいのオスは2月まで生き、メスに至っては4月を迎えてもまだ死にません。
最後は、いい加減 世話がめんどうくさくなったわたしに「もう暖かいし、十分だろう」と外の世界へ放逐されたのでした。
もちろんバッタに愛情を抱いたりはしません。
子ども達も早々に飽きて、最後の方は見向きもしなかったように思います。

つまりわたしにとって、サカナや昆虫は「死んでもさほど落ち込まないし、必要とあらばすぐに次を補充しても心が痛まない」存在だったわけです。
わたしにとって、葉っぱ達の命の重さはサカナとイヌの間に位置すると言えます。

🐠、🦗 <<< 🌱 < 🐩、🐈‍⬛、🐦

この序列が世間一般で通用するものなのか?
それともわたしのような植物愛好家の間だけで通用するものなのか?
はたまた、多くの人にとって受け入れられないものなのか?
ちょっと分からなくなってきてしまいました。。


越冬したバッタ
虫かごの中でこいつは幸せだったんだろうか?
寒さと飢えと外敵に苦しもうと、外の世界で仲間たちとピョンピョン跳ねてた方が幸せだったのかい?


そうこうするうち、わたしの妄想は動物の権利やヴィーガニズムにまで到達するのです。

毛皮や象牙のような贅沢品のためにキツネやゾウを殺すのは残酷なことです。理解できます。
フォアグラも酷いです。理解できます。
でも、羽毛布団やウールのセーター、ハンバーグ、牛乳、目玉焼きなどなど、身の回りにありふれた動物由来製品に関しては、頭では理解できても腑に落ちないというか、、自分が残酷な行為に加担しているという意識は希薄です。
(それとは別に、食糧問題の観点からいずれ牛肉や豚肉なんかは贅沢品になっていくんだろうな。。とぼんやり思っていたりはしますが)

飼っていたブンチョウが死ねば深く心を痛めるけれども、その一方で焼き鳥や温泉たまごは大好き。
結局のところ、わたしは自分の半径3メートルくらいの極個人的な愛着でしか命の重さを測れていないということなのでしょう。
まだしばらく、わたしはヴィーガンになりそうにはありません。

でも、わたしの孫かひ孫くらいの世代(食肉が贅沢で、万人にとって当たり前ではなくなった世代)ではヴィーガニズムも当たり前になっているのかも。
「え、ひいじいちゃんて鶏の肉食べてたの!? 気持ちワル😱」みたいな感じで。
その頃には、人権が拡張された動物の権利が更に適用範囲を広げて、植物の権利として議論されているかもしれません。
そうなれば当然、植物の鉢植えなんて持ってちゃいけないだろうし、うっかり枯らしてしまうなんてもっての外なわけで。。
わたしの趣味はどうなってしまうのでしょう?


深夜の取り止めのない妄想をつらつら書いていたら、いつの間にか3,000文字にもなっていました。
最後まで付き合ってくださった方、どうもありがとうございます😎

ちなみに、現在の動物の権利の適用ラインは”苦痛を感じることができるか否か”だそうです。

動物の権利論では、苦痛を感じる能力があることが重視されます。そして、苦痛を感じるための感覚器官や神経組織、脳を備えていることが一応の判断基準となります。さらに、種々の感情や欲求を持つこと、知覚、記憶、未来の感覚があることなども考慮されます。

認定NPO法人アニマルライツセンター権利を認める生物のラインはどこですか?

植物や細菌には適用されない。昆虫や軟体動物については現在 議論がなされている。
とのこと。

植物の権利が広く認められるような時代、ヒトは何を食べているんでしょうね?
キノコとか菌類?

お付き合い、本当にありがとうございます。
次回はまた来週金曜日に更新予定です。
ではでは。

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ノンシャラン
ありがとうございます! いただいたチップはわたしの血肉といたします。