プレゼンの神・澤円さんの講演会「もっと楽に生きるために必要なマインドセット」を聴いてきた
昨日は息子の通う中学校で澤円(さわ・まどか)さんという方の講演を聴いてきた。
会場の熱にあてられて、今もわたしはやや興奮気味である。ゆえに、今回はいつもと違う「だ・である」調で書くことをお許し願いたい。
家に帰って氏の名前をググってみたらWikipediaに名前が載ってる。ビル・ゲイツに褒められてるし、なにやらすごい。
特に”プレゼンの神様”という二つ名はインパクトがある。
学問(=菅原道真)とか打撃(=川上哲治)とかエレキギター(=ジミ・ヘンドリクス)とか、、日本にはいろんな「xxの神様」がいるが、本人が現役・存命のうちにそう呼ばれるのは結構 珍しいのでは?
何せ三浦和良やレブロン・ジェームスですら現役続行中の現在、「キング」どまりなわけだし。
とにかく、その神業を直に体験したわたしは今、文章の語尾が変わるくらいに、「何かやったるか!」という気になっている😤
講演会「もっと楽に生きるために必要なマインドセット」
昨日わたしの参加した講演会は神奈川県下市立高等学校PTA連絡協議会と横浜市立高等学校PTA連絡協議会の共催で、講師は先述の澤さん。
テーマは「もっと楽に生きるために必要なマインドセット」である。
なんて魅力的なテーマ!
わたしは何をおいても、とにかく「楽であること」を重視する人間。「楽であること」のためならば、どんな苦難も厭わない。
IT業界に馴染みのない人にとっては矛盾しているように聞こえるかもしれないけれど、澤さんのex-勤め先であるマイクロソフトを筆頭に、ソフト屋さんの世界ではこれは割とよく聞く文言だと思う。
プログラマにとって「怠惰」は美徳なのだ。
とにかく、わたしは恥ずかしながら寡聞にして、講演会のチラシを見るまで澤さんを存じ上げなかったが、このテーマを見てすぐに参加を決めた。
講演会の当日、そんなテーマに惹かれてか、平日昼過ぎのスタートにも関わらず会場にはそれなりに多くの人がいた。
意外にも男性、それもスーツ姿の人が多い。みんな午後休とって来たのかな?
平日昼間だからてっきり、お爺ちゃんお婆ちゃんと教育熱心なママが大半だろうとわたしは思っていたのだ。
でも謎はすぐに解けた。先生だ。
自分がそうだからか、PTAときいてなんとなく保護者の集まりをイメージしていた。が、正しくはPTAは保護者と教師の団体で、先生達にとってはこの講演は研修みたいなものなんだろう。
なるほど、講演中も熱心に頷いたり、一生懸命メモをとったりしている。
講演の中身について、残念ながらわたしにとって目新しい情報はなかった。
と言うより、わたしはこの講演のターゲットではなかったのだろう。「not for me」と言うやつだ。
自分で言うのもなんだが、わたしは割と勉強して来た方だ。
今でこそ会社勤めを辞めて隠居の身だが、その前は10年以上アメリカの医療機器メーカーでソフトウェアエンジニアをやってきた。ビジネスパーソンとして、必要な研修は受けてきたし、ビジネス書の類いもまあまあ読んだ(つもりだ)。
澤さんは講演会で、「『だって、でも、どうせ』は生産性を下げるからやめよう」とか、アンガーマネジメント(”べき”の境界線)とか、ブロニー・ウェアさん著の「死ぬ瞬間の5つの後悔」などといった話をされていた。
これらは単なる知識としてなら、流行りのビジネス書を10冊も読めば得られる内容だ。
(もちろん、知識を生かすには相当の実践が必要だし、人に教えられるレベルでマスターするのは並大抵のことではない。澤さんはスゴいと思う。少なくともわたしは無意識的有能のレベルにすら達していない)
そもそも、短い時間の、ライト層に向けた講演で巷のビジネス書以上の知識を伝えるのは無理があるというものだ。
だからこういうのは、内容よりも「誰が話すか」「どんなふうに話すか」が大事だったりする。
その点で澤さんはさすがプレゼンテーションの神様、講演後は先生たちも意識高い系のママさんたちも、もちろんわたしも、皆 魔法にかかったように一皮剥けた気にさせられた(ように見えた)。
(たしか、ビル・パーキンスさんの「DIE WITH ZERO」でも取り上げられてましたね)
親が学ぶ姿を子どもは見ている
講演の中で特にわたしに刺さったのは、上の「親や教師が学んだり働いたりする姿を、子ども達は見ています」というひと言。いや「そういう姿を見せていますか?」という問いかけだったかもしれない。
いずれにせよ、このひと言には少なからずドキッとさせられた。
退職前、サラリーマンだった頃のわたしはおおむねリモートワークだった。
時差のある海外のエンジニアチームと連絡を取るため、朝晩のテレカンは日常茶飯事。わたしの打ち込む謎の文字列(開発中のソフトウェアのソースコードだ)がモニタに映るのを子ども達が目にする機会も多かったと思う。
他の多くの父親のように背広にネクタイ締めて、もしくは作業着・ユニフォームに身に包み、家庭の外で戦うカッコいい姿とはまた少し違うが、仕事とか勉強がどいういうものかはまずまず伝えられていたはずだ。
ところが、隠居した今はどうだろう?
(わたしは40歳で退職しました。アーリーリタイヤとかFIREとかって言い方もありますが、どうもあまりしっくりこず、自分の現状を日本語で「隠居」と呼びたいと思っています)
朝から何度も庭の葉っぱ達を観に行ったり、飽きずにパシャパシャそれらの写真を撮ってみたり、シミュレーションゲームに興じたり(Civilization Ⅵ、、かれこれもう3,000時間近くプレイしているよ。。😨)、子ども達とボードゲームにハマったり、、
何やら楽しそうな姿は見せられていると思うが、一人の大人として、父親として、これで良いんだろうか?と疑問も感じないわけではない。
トンビは鷹を産まない?🦅
親の背中を見て育つと言うが、うちの子達はどうだろう?
楽隠居のわたしの背を見て、彼らは何を学び、どんな大人になるんだろう?
講演会で澤さんが言っていた通り、結局のところヒトは皆 幸せになるために生きている。
わたしは今 幸せだ。
社会に出て十余年、始めからずっと「会社員は性に合わないなァ」と思ってきた。それでも優しい人たちに支えられ、なんとか他人より早めのリタイアまで大過なく務めることができた。
隠居した今は家族とのノンビリした毎日。
頻繁な贅沢はできないが、年に1回か2回か3回かちょっとした旅行をして美味しいものを食べる。欲しいものがあれば、散々悩んだ末に、それでもやっぱりまだ欲しければ買う。訪ねてきてくれる友人だって幾人かはいる。
過不足のない暮らし。それがこの先 40年続く。。
なんの問題もない。
苦手なものや嫌いなものを極力取り除いた、これがわたしの人生で、長年 求めてきた幸せの形と言い切れる。
仮に、この先の人生で何か予定外の大きなお金が必要になったり、波風のない生活に退屈するようなことがあれば、その時はまた働いたって別にかまわないのだ。
とにかく、今はわたしはこれで良い。満足してる。
でも、20年か30年か40年後、わたしの子ども達が今のわたしと同じような生活をしていたら、その時わたしはどう思うだろう?
「本人と家族が幸せならOKです😃」となんのわだかまりも無く言えるだろうか?「心を燃やせ。歯を食いしばって前を向け」と、自分を棚にあげて思ってしまったりしないだろうか? 「生まれついて人よりも多くの才に恵まれた者は、その力を世のため人のために使わねばなりません。天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません。」なんて漫画みたいな調子で諭しだしたりしちゃうのかな?
それはその時になってみなければ分からない。
その時になって初めて、わたしは今の隠居生活を後悔することになるのかもしれない。
蛙の子は蛙?🐸
逆に、今のわたしの暮らしぶりを見たら、わたしの親ははたしてどう思うだろうか?
わたしの両親は地方の銀行員と主婦で、真面目な堅物だった。
何より世間体を気にする彼らのこと、きっと「働き盛りの男が昼間っから家の周りをウロウロしてみっともない!」と言うかもしれない。「小さな子どもがいるのに働かないなんて、無責任だ」と責めるだろうか。それとも意外と「お前と家族が幸せなら良いんじゃないか?お父さんもあんなに毎日遅くまで働かないで、家族との時間をもっと大切にすれば良かったよ」なんて言うかもしれないな。
これもまた、今わたしがいくら思い巡らせても答えはわからないままだ。
世はまさに、大AI時代!!
一方で、うちの子ども達が今のわたしくらいの年齢になる頃、多くの日本人はみな、本人が好むと好まざると今のわたしのような隠居生活を送っているような気もするのだ。
改めてわたしが言うまでもなく、近年の生成AIの進歩は目を見張るものがある。
「このままのペースでいくとx年以内に人類の仕事のy%はAIとロボットによって代替可能」なんて話をよく耳にするが、これはどうやら完全な与太話でもなさそうだ。むしろ「おじいちゃんが子供の頃って、ヒトが公道で車を運転したり、裁判所で人を裁いてたりしてたってホント? それってメチャメチャ危ないねー」なんて孫に言われる未来がほとんど見えている。
そうなれば当然、全ての日本人に割り振るには仕事が足りなくなる。今ですら辻褄合わせに作られたようなクソどうでもいい仕事(Bullshit Jobs)が大量にあるんだから、これは必然だ。
仕事は特別な才能や熱意を持った一部のエリートの特権になり、それ以外の庶民はベーシックインカムで食うに困らない生活を送り、植物を育てたりそれを写真に撮ってブログを更新することに生き甲斐を見出すようになる。そうでなければ絵でも描くか、AIの創った最新のヒット映画をYouTubeで見続けるのか。。
なんにせよ、ヒトは仕事以外に生き甲斐を見つけなくてはならない時代がすぐそこに来ていると思われる。
労働が嫌で隠居を選んだわたしには俄に信じ難いことだが、世の中の人たちは結構 仕事が好きだ。少なくともわたしからはそう見える。
飲みに行けば決まって仕事や職場の愚痴が口を衝く人でも、実際に仕事を辞める算段を立てている者は殆どいない。わたしが「子どもの習い事を整理して家賃の安い地方に越せば、仕事を辞めても生きていけるんじゃないの?」と問うても「まあ、そうかもね。ははっ」と笑うだけ。
「仕事が好き」でなくとも、「働かざる者食うべからず」的な価値観を信仰する労働教の信者なのだ。
AIやロボットが人から仕事を奪う時代、労働教受難の時代を人々がどう乗り切るのか、ここにわたしは興味がある。
講演会の質疑応答では時間が足らず、わたしも自身の考えをうまく言語化できていなかった為、澤さんならどう考えるのかうかがうことはできなかった。
もしも幸運にもこのポストが澤さんに届くか、何か別の機会にお話しできるようなことがあれば、以下の2点を質問してみたい。
今のわたしの生活(無職だが楽しく暮らしている)は13-4歳の4人の子を持つ父親として、問題があるんだろうか?親が働く姿を見せるべき?
このままAIやロボットが進歩すれば、いずれ近いうちにヒトは働かなくていい日が来ると思うか?その時、社会は「働かざる者食うべからず」的な価値観を拭い去ることができるんだろうか?
うちの子ども達が今のわたしの年齢になる2050年代、いったい社会はどんなになっていて、子ども達はどう暮らしているんだろう?
ヒトは皆、幸せになるために生きている。ならば、ヒトの創ったAIもまたヒトを幸せにするものであって欲しい。
テクノロジーの進歩がわたしの子ども達を、ひいては人類をより幸せにすることを願ってやみません。
澤円さん、つい先日 新刊を出版されたそうです。
(さっき買いました😎)