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人間学への旅路 3 心理学科を退学して教育学部へ 【ピエロの手記 10】

心理学科の退学届けを出してからかなり落ち込んだ。
人間学を科学的にやりたいという目標はあるのだが、そのはるかな山頂に至るコースが見いだせない。
焦りも加わって、精神状態は低下の一途をたどった。
そうなると現れてくるのが、私の心の病である。
愛着障害から発した飢餓感は人生への飢餓感として抜き難く心に位置を占め、胸を襲ってくるのである。胸は physical な劇痛に迫られてくるのである。
すると、芥川の台詞が甘いささやきに聞こえてくるのである。
龍之介曰く。
  「一番良いのは生まれてこないことで
   次に良いのは、なるべく早く死ぬことだ」

崩れそうになる私に、ロマン・ローランが全く反対の檄文を私に放ってくるのである。
『ジャン・クリストフ』前書きの掉尾に
  「苦しめ!
   死ね!
   そしてならねばならぬ者になれ!
   つまり一人の人間に!!」
そうか。一個の人間になるには、死ぬほど苦労しなければならないのか。
私はロマン・ローランに背中を押されて気を取り直すのであった。

以下の記述は、この記事の〈劇中劇〉という位置づけである。
活字をワンポイント落として記したいところである。
私が誇大妄想狂に陥った顛末が述べられます。
恥と言えば、これほどひどい恥もないというレベルです。
しかしこの手記には愚かさも恥も全部陳列する決意です。
皆さんはあまりのアホさを笑ってください。
わたしも一緒に笑います。

さてその頃、ある高校の先輩(若手研究者)と酒席を共にした。
お互い相当お酒が回ったころだったろうが、
彼の進路アドバイスが始まったのである。
「伊藤君よ、人間学をやろうというのに、文科系に行くのが間違い!
 考えてみろ。宇宙ができて地球が生まれ、文明が誕生して今日の人間の社     
 会が存在しているのだ。自然科学からのアプローチこそが、人間学の頂き 
 に至る道なのだ」
これを聞いて私はまともに信じた。
そうかそうなのか、持つべきは良き先輩である。

翌年、東大の理科一類に入学した。
そこから理学部へ行き宇宙論をやろうというのである。
さらに大学院迄いかなければものにはなるまい。
宇宙論と言えば京大が随一である。
大学院は京大へ行こう。
気の早い私は、京大の教授にアポをとって話を聞きに行った。
研究室の奥から現れた教授はいたく喜んで大歓迎をしてくれた。
「わざわざ東京から会いに来てくれるなんて奇特なことだ。
 さあ歓迎の席へ行こう」
居酒屋しか行ったことのない私は高級な店のことは分からない。
連れて行ってくれたのが料亭だか割烹だか知らないが、見たこともないご馳走が並び、高そうなお酒が出てきた。
大いにご馳走になったところで店を出て、
なんと教授は一介の学生である私を新幹線のホームまで見送りに来てくれたのである。
ホームで二つのことを言われた。
ひとつ。
院の試験には、英語だけはしっかり勉強しておくように。
英語はほかの先生が採点する。
あとひとつ。
40歳くらいになると、宇宙論が少しわかるよ。
以上二つである。
私は最敬礼をしてお別れをした。

新幹線のシートにもたれてうとうとし、
目が覚めたのは名古屋あたりだったか静岡だったか。
教授の言葉を反芻した。
英語をしっかりやっておきなさい、これはわかる。
他の先生が採点するからごまかしようがない。
専門科目は私が採点するのだから安心しなさい、ということか。
問題は二つ目である。
ナヌ!40歳くらいで宇宙論が少しわかる!!
それから地球の誕生⇒人類の誕生⇒文明の誕生・・⇒現代文明の誕生
それらを踏まえて人間論をやると???!!!
レオナルド・ダ・ヴィンチじゃあるまいし。
おっと、ダ・ヴィンチだって100年くらいかかるだろう。
私はすっかり酔いが醒め果てた。
同時に、誇大妄想からすっかり醒めたのである!!
理学部へ行ったのは間違いであったのだ。

しかしさすがにここで退学はできなかった。
住所不定無職は怖かった。
休学して再興を期すことにした。

バイトとボランティアで日をおくり悶々としていた。
その頃、学内の院生の先輩から、今度はまっとうな信ずべきアドバイスを得た。
東大の教育学部の中に、adult education という研究科があり、そこでは人間論、人間形成論はたまた人生の意味などの研究が普通に行われている。
人間の科学的研究についての、卒論や修論もいくつもある。
そこまで調べて助言してくれたのである。

私は文転して、転部試験を受け教育学部の人となった。
2年次の後期へ編入されたのである。

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