20代で学んだこと 20代後半編

幼稚園の非常勤勤めは、保育園とは全然違った。まず14時に子どもが帰るので14時から製作の準備や書類作成に時間が当てられる。
15時にはお茶やお菓子を食べながらの休憩タイムもある。こんな一息できる時間があるんだ!
と別の世界を知った感覚だった。
一年目はベテラン主任の補助教員として働いた。
主任はとても尊敬できる人でとても仕事がしやすかった。毎日の仕事が楽しく、休みの日も仕事に行きたいほどやりがいを感じた。
保護者や子どもからも慕われ天職だと思った。
ただそれは担任じゃないからそう思えたのだ。幼稚園では人事移動があり主任も違う園に移動になった。人手不足から担任を勧められて担任として働くことになった。
これが間違いだった。自分には28人の園児をまとめる力なんて備わってなかった。
また学年事に落ち着いてる学年もあれば元気でやんちゃな学年もいる。
クラスに自閉症の園児が一人とグレーゾーンの園児が2人ほどいた。
私はグレーゾーンの一人の園児に頭をかかえた。室内遊びの際に上靴のまま園庭に飛び出したり、みんなを集めて絵本を読めば大きな声を出して妨害したり、後ろから突然タックルしてくることもあった。身体の大きな子で普通に痛い。園長も補助として入って助けてくれたが、
毎日怒ってばかりの自分が嫌だった。
精神科にも行った。
28人をまとめて発表会にでる自信もなかった。
だから私は逃げた。私の代わりの教員が見つかると引き継ぎを済ませ、子どもや保護者に理由も言わずに辞めた。
幼稚園で学んだことは、中途半端に投げ出すと
ずっと後悔が残るということ。

子どもと関わる仕事は自分には向いてない。
人と関わるのもしんどい。
一人で黙々とできる仕事は何だろうと考えたとき、工場勤務なら人と関わらずに仕事ができると思い、工場で働くことを決めた。

すぐに仕事は見つかり、正社員で働くことが決まった。
工場での単純作業は楽しかった。ただ工場で働く人たちは怖かった。
ここでお局に目をつけられた。ずっと監視されて注意された。工場では毎日ノロマをこなさなければ終わるまで帰れないからミスも許されないし、速さも求められた。残業も日に日に伸びて、毎日残業が当たり前になった。
上司が辞められると困ると思ったのか、本社から少し離れた工場に移動させてくれた。

移動先の工場の人達は本社と違い穏やかな人が多かった。
工場では残業が当たり前だった。朝8時出勤で夜21時回ることもあった。勿論晩ご飯など食べる時間もない。実家暮らしだが自分のことは自分でやっていたので、仕事帰り閉店ギリギリのスーパー回って食材を買いに行くこともあった。惣菜やコンビニ飯が苦手だったので、自炊して自分のお弁当を作っていた。栄養源は朝の食パンとほぼ毎日同じおかずの手作り弁当。家に帰ったらクタクタでお風呂に入って寝る。晩ご飯を食べない生活が当たり前になった。5キロ痩せた。痩せたというよりやつれた。
工場では残業すればするほど、その分お金として返ってきた。初めて手取り20万を超えた。
20万を超えた時は嬉しいかったが、この時はお金よりも時間が欲しかった。
自分はこのまま仕事だけの人生なんて嫌だった。何より粉塵作業で咳は出るし、目も痛い。
マスクはしてるが鼻をかめば真っ黒。ポケットに入れてる印鑑も蓋の中にまで粉塵がついてる。長く続ければ身体も壊すだろうと思った。
身体を壊して働けなくなったとしても会社は助けてくれない。工場は三年で辞めた。

せっかく正社員で働けたのに、転職を繰り返す私に母は呆れたし、これから契約社員か派遣でどうやって生活していくんだ!と心配した。

心配症の割に人生のこの先の不安はなかった。
ただ漠然に母と同じように朝から晩まで仕事に追われるだけの人生は嫌だと思った。
母には家のローンを返すという目標がある。

うさ子も30までに500万貯める!貯まったら辞める!とか目標を決めていたらもう少し続いていたかもしれない。粉塵も粉塵マスクをつけるなど対処はできたと思う。
その当時は馬車馬のように働くことが嫌で仕方なかった。

工場で学んだこと。 
時間=お金  うまく説明できないけど、
時間はお金と同じくらい大切なんだと思った。

長くなったので今日はここまで。
読んでくださりありがとうございます。

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