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小説 「聖を殺した」 9

 雅紀は、再び瑞希をソファに座らせると、サイドボードから黒いブランデーの瓶とふたつのグラスを取り出した。
 グラスにブランデーを注ぎ、瑞希に微笑みかける。

「飲む?」
「いらない」
「飲んでよ。せっかくだから」

 雅紀は右手にもったグラスを瑞希に差し出した。
 瑞希が首を振って拒むと、苛立ったように舌打ちをする。思い通りにならないと癇癪を起すタイプのようだ。
 仕方なく、瑞希はグラスを受け取った。
 雅紀の手からグラスが離れる。その刹那、雅紀の手が、ふわりとグラスの淵を撫で、痙攣したように動いた。
 グラスの中に、白い粉がパラパラと降り注いだ。
 瑞希はハッと顔をあげた。
 いたずらの種明かしをするように、雅紀は小首をかしげ、手の平を瑞希に向けた。
 その中指には、アンティーク調の銀の指輪が嵌められていた。
 一見、シンプルなデザインに見えたが、手の平部分には、繊細な装飾がほどこされている。表裏を逆にすることで、本来、見せるべき装飾を、手の平の中に隠しているのだ。
 もっと異常なことに指輪の中央で装飾の一部が、パックリと割れていた。      小さな丸い枠が、蓋の役割を果たしている。
 まるで、手品の小道具のようだ。
 雅紀は含み笑いとともに、中指をひらひらと振ってみせた。
 白い粉が淡雪の名残りのように、宙に舞って消えた。

「面白い指輪だろう。ポイズンリングというらしいよ」
「そうやって、嶋野さんのグラスにも、青酸カリを入れたのね」
「そう。だけど、妹は何も知らないよ。今のあんたとあの時の妹じゃ、眼の高さが違うからね」
「そうね。確かに」

 瑞希はソファに座り、雅紀を見上げている。あの日の瑤子は、雅紀と並んで立ち、グラスを見下ろしていたのだ。雅紀の手が動いたことには気づいても、その手に隠れ、白い粉は見えなかっただろう。
 瑞希がふと、奇妙な違和感を覚えて首を傾げた。
 雅紀は、今から殺そうとする人間を前にしても、妹だけは護ろうとしている。

 ひどいものは、妹には見せたくない。
 妹は毒を盛るところなど見ていない。

 兄妹の枠を超えた一途なものが、雅紀の言動の中に見え隠れしていた。
 この兄妹は、やはり普通ではない。

 「飲んでよ」

 雅紀がまた言った。
〈は・や・く〉と、唇だけが動く。笑っている。しかし、目は笑っていない。まるで般若だ。
 ゾッと鳥肌が立った。遅まきながら、恐怖が襲ってきた。

「ねえ、考え直してみない?」

 ダメ元で言ってみる。
 雅紀は露骨に顔を歪めた。

「往生際の悪い女だな。飲めよ、早く」
 
 瑞希は小さく息を吐いた。 
 逆転負けだ。もう潔く、諦めるしかないかもしれない。
 
 —— こんなことになるとは思わなかった。これはきっと太子の祟りだ。私は聖徳太子に触ってしまった。ほんの少し。だけどきっと。触りどころがすごく悪かったのだ。逆鱗に触れたのかもしれない。

 ゆっくりとグラスを口に運んだ。
 往生際が悪いから、なんとかこの危機を逃れる方法はないものかと、頭だけはフル回転させながら。

 玄関でけたたましい音がしたのは、その時だった。
「こっちだ」と叫びながら、誰かが駆け込んでくる。
 居間の扉がバンッという音とともに、荒々しく開く。

「北見雅紀。嶋野肇殺害容疑で逮捕する」

 鉛筆の杉田が部屋に飛び込んできた。消しゴムの渡貫が、雅紀に向かって突進してくる。
 彼らの後ろから、制服警官が群れをなして襲い掛かった。
 一瞬にして、山荘の居間に警官の団子ができたと思ったら、すぐにそれがばらけ、一番下から、雅紀と、彼の手に掛けた手錠の端を握りしめた渡貫が現れた。

 渡貫は肩で息をしていた。
 反対に雅紀は、呆然と立ち尽くしていた。まばたきを繰り返し、あらぬ方に眼を向けている。糸の切れた人形みたいだ。
 状況が飲み込めず、瑞希も、ただぼんやりと、警官たちを見渡した。
 渡貫が瑞希に気づき、いきなり目を剥いた。

「あんたねえ。何か思い出したら、すぐ警察に電話すると言っただろうが」
「言ったけど、そんなのただの」

 口から出まかせです、などと言えるわけもなく、ぐっと口をつぐんだ。
 渡貫の顔が火を噴きそうなほど、真っ赤だったのだ。かなり本気で怒っているらしい。信じやすい質かもしれない。信じやすい刑事なんて、いいのだろうか。
 杉田が白い手袋をさっと着けると、瑞希の手からグラスを取り上げた。

「朝倉さん、事情を伺いたいので、ご同行願います」
「また?」

 渡貫がぎろりと睨みつける。
 行きますよ、というと、当然だ、という顔でうなずいた。

 山荘の門前には、6~7台のパトカーが止まっていた。ドアが開いたままの一台。2台は土手に乗り上げている。壮観といえば壮観な眺めだ。
 瑞希は杉田を振り返った。

「パトカーのサイレン、聞こえなかったんですけど」
「鳴らさない時もあるのです」

 何を思ったか、杉田はドヤ顔で答えた。
 パトカーもマナーモードにできるのか、と妙な関心をして、すぐに気づいた。

「どうして私と雅紀さんがここにいるって、解ったんですか?」
「北見紘一さんが教えてくれたんですよ。あなたからのメールを読んだそうです」
「でも、私のメールは、雅紀さんが消したって」
「紘一さんは、弟が自分のメールを操作していることに気づいていたんですよ。大事な要件が消えてしまうことも、何度かあったらしいです。それでパソコンもスマホも、一度削除したメールを復元できるように、設定してあったそうです」
「できるんですか? そんなこと」
「できますよ。うちなんかも、最近の捜査では必須です。ただ、個人でそんなことをする人は、あまりいないんじゃないかな。復元のたのアプリも、たしか有料ですしね」

 話好きの杉田は、今回も、訊いてないことまで丁寧に教えてくれた。

 紘一は、門の脇にひっそりと立っていた。
 手錠をかけられ、パトカーに乗せられようとしている弟を、やり切れないような眼差しで見守っていた。

「雅紀」

 小声で呼びかける。
 雅紀は立ち止まり、泣き笑いのような笑みを浮かべて、兄を見つめた。

「兄貴・・・」
「大丈夫。しっかりな」

 雅紀の眼を見返し、紘一は静かにうなずいた。
 どんなにわだかまりはあっても、紘一と雅紀は兄弟なのだ。短いやり取りの中に絆のようなものが感じられた。

 渡貫に促され、雅紀はパトカーに乗り込んだ。
 紘一はそれわ見送り、思い出したように、瑞希を振り返った。

「朝倉さん。危険な目に遭わせてすみませんでした」
「いいえ。お陰で助かりました」
「ひとつ伺ってもいいですか」
「はい」
「あなたはメールで、嶋野の叔父を蘇我入鹿だと書いていました。それなら、殺害者は中大兄皇子、皇極天皇の長男ということになりますね」

 はい、と瑞希はうなずいた。
 聖徳太子の死から、23年後の645年、中大兄皇子は中臣鎌足とともに、皇居内で蘇我入鹿を暗殺し、入鹿の父、蘇我蝦夷を自殺に追い込んだ。これにより、皇極天皇の政権で絶大な権力を誇っていた蘇我一族は滅びたのだ。乙巳の変、大化の改新である。
 この事変をきっかけに、皇極天皇は退位し、弟の孝徳天皇に位を譲るが、10年後の655年、斉明天皇として、再び即位(重祚)している。
 斉明天皇の時代は長きに渡って続き、13年後の668年、中大兄皇子(天智天皇)はようやく即位したのだ。
 
「確かに、乙巳の変で、蘇我入鹿を殺害したのは中大兄皇子です。でも、彼は皇極天皇の長男ではないんです」

 紘一が怪訝な顔をする。
 瑞希はシャツのポケットから、昨日作ったばかりの、矢印だらけのメモを取り出し、紘一に渡した。
 それを受け取り、紘一はしばらくの間、じっと見ていた。
 やがて、無言で瑞希にメモを返した。暗い眼をしていた。
 その眼に言葉を封じられたように、瑞希は立ち尽くした。

「朝倉さん、乗ってください」

 杉田がパトカーのドアの前で、声をかけてきた。
 紘一に軽く頭を下げ、パトカーに近づくと、杉田が素早く「一応、お預かりします」と、瑞希の手からメモ用紙を抜き取った。
 やはり刑事だ。油断がならない。

 パトカーは次々に走り出し、山荘を後にした。

 一番訊きたかったことを、紘一に聞くことが出来なかった。
 パトカーの後部座席で、六甲山特有の急カーブに身体を任せながら、瑞希はぼんやりとそう思った。
 まわりに警官が大勢いたから。
 いや、そうではない。
 あまりにも無残な質問だから、最後まで口にすることが出来なかったのだ。
                           つづく

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