
小説 「聖を殺した」 2
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嶋野は慌ただしく部屋を出て行った。
代わりに紘一が、笑いながら入ってくる。
「お気を悪くしないでください。叔父はあれで、あなたをとても気にいったようですよ」
「そうでしょうか」
「あんな言い方をしてましたが、叔父は、あなたをお引き止めしておけと、僕に厳命したんです。珍しいことですよ」
嶋野には終始、からかわれただけだが、社交辞令だとしても、相手の負担を取り除こうとする紘一の配慮は、耳に心地よかった。
紘一が、胸ポケットから名刺入れを取り出す。
瑞希も慌ててそれに倣った。
交換した名刺には『財団法人奈良瑛明学院 副理事長 北見紘一』と記されてあった。ずいぶん若い副理事長だ。どう見ても、30代前半にしか見えない。
紘一は、ふと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「副理事にしては若すぎると思っていますね」
「いえ、そんな」
「よく言われるんです」
紘一は屈託なく笑った。
「奈良瑛明学院大は、僕の曽祖父が設立した大学なんです。その後、早世した父が付属高校を設立し、父の跡を継いで理事長に就任した母が、付属中学と小学校を設立しています。僕は副理事といっても、ただの七光りなんです」
名門一族の御曹司なのだ。
この落ち着いた佇まいは、育ちのなせる業なのか。そう思ったら急に、嶋野の立ち位置が気になった。
「そうすると、嶋野教授も?」
「もちろん、叔父も財団の経営陣に名前を連ねていますよ。もっとも叔父というのは正確ではなくて、嶋野は僕の父のいとこなんです。父が亡くなった20年前から、叔父はずっと、母の相談役のような立場でした。現在は大学の研究室で何か調べていることの方が多いですがね」
「教授ですもの」
「それは肩書だけですね」
紘一はあっさりと言った。
「叔父は史学の研究者としては知られています。しかし、人にものを教えるというのは、本質的に嫌いなのでしょうね。学生が研究室に立ち入ることも禁止しているし、講義も、一週間に一コマしか持っていません」
一週間に一コマ。つまり嶋野は、一週間で一時間半しか働かないのだ。なんだかうらやましいような身分だ。
話題を切り替えるように、紘一が窓の外を指し示した。
「せっかくですから、構内を案内しましょうか」
「ありがとうございます。ぜひ」
部屋を出るとき、紘一はドアを手で支え、瑞希を先に通した。
その指に、瑞希はふと目を止めた。指の長い、男性にしてはしなやかな、美しい手だった。
建物を出て、緑の多いキャンパスを、並んで歩く。
「あそこに見えるのが付属高校です。その向こうが付属中学と小学校。一区画離れたところに、付属幼稚園が新設される予定です」
紘一が歩きながら説明する。
私立の名門として近畿圏内に知られた奈良瑛明学院は、市外のこのあたりに、巨大な学園都市を形成しているのだ。
大学だけでも、学部ごとに、いくつもの建物が点在していた。
歴史を感じさせる重厚な学舎と、ガラス張りの現代建築が、芝生の広場を挟んで向かい合っていたりする。
今日は7月22日。
夏季休暇が始まったばかりの構内に、学生の姿はまばらだった。蝉の声が静寂を破っている。樹木が多いせいか、空気までが清浄に感じられた。
「時間がゆっくり流れているような気がしますね。奈良英明学院を目指す受験生や、保護者の気持ちがわかりました」
「ありがとう。しかし、少子化の時代ですからね。学校経営も、これでなかなか厳しいんですよ。生き残りをかけて戦っているというところでしょうか」
「戦国時代、ですか」
「ええ、まさに」
口調は穏やかだが、経営者の顔で紘一は言う。
「今日は各学校の関係者を集めた懇親会が、大学のホールで開かれているんですが、そういう話も含めて、叔父と母が一席ぶってるはずですよ」
「北見さんはいらっしゃらなくていいんですか」
副理事長なら、紘一も立派な学校関係者だ。
「僕はいいんです」
紘一は微笑んで首を振ったが、不意に、
「そうだな。ちょっと覗いてみますか」
「私も? でも部外者なのに」
「かまいませんよ。大学のOBや、各学校のPTAもいますから。気にすることはありません」
懇親会が開かれているというホールは、学舎のなかでも、ひと際大きな建物の一階にあった。
紘一がホールの扉に手をかけた瞬間、拍手の音が響いた。扉を開けると、その音がいっそう大きくなる。
「叔父の演説が終わったところらしいですね」
紘一が小声で言った。
場内には、5・60人の男女がいた。
懇親会と、紘一は言ったが、壁際には、色とりどりの料理や酒の並んだテーブルがあった。
立食パーティーなのだ。
会場の人々は、華やかにドレスアップしている。彼らは正面の壇上に顔を向け、和やかに拍手をしている。
壇上には嶋野が立っていた。マイクを手に、無表情で、会場の拍手を受け止めている。
四人の男女が、嶋野の横に並んでいた。
嶋野のすぐ隣に、淡いピンクベージュのスーツを着た女性が立っていた。
透き通るような白い肌と柔らかな弧を描く眉が、学窓には似合わない色香を漂わせているが、眼差しには知性が感じられた。大勢の人の中にいても、必ず真っ先に眼が止まる。そういうタイプの女性だ。
「美しい方ですね。嶋野教授のお隣の女性」
「理事長の北見百合絵です。僕の母ですよ」
「え?」
瑞希は眼を見張った。壇上の女性は、とても、紘一の母には見えない。
「お若く見えます」
「今年五二歳だったかな。確かに実年齢より若く見えるようですね」
紘一は苦笑して、百合絵の隣りを指し示した。
「母の隣りにいるのが弟の雅紀です。雅紀の隣りが妹の瑤子。そのとなりは瑤子の婚約者の河田和弘君。県知事の河田謙介の長男です」
雅紀ははスポーツでもしているのか、浅黒い肌に筋肉質の体形、精悍な顔立ちをしていた。
瑤子はまだ少女の名残を残している。大きな目と小さく整った口元が、高級な猫を思わせた。百合絵から知性や気品を取り去ったら、瑤子のような女性になりそうだ。
瑤子は婚約者ではなく、兄の雅紀にしなだれかかるように寄り添っていた。
そのせいか、県知事の息子だという婚約者は所在なさげで、丸い眼鏡の向こうから、時折、となりの瑤子を窺っている。
壇上の人々に、シャンパングラスが配られ始めた。
コンパニオンらしい女性の手から河田和弘に手渡されたグラスが、瑤子へ渡される。瑤子から浩司へ、浩司から百合絵、そして嶋野へ、グラスは伝言ゲームのように移って言った。
会場の人々にも、グラスが配られた。
「県知事、乾杯の音頭をお願いします」
司会の男性が会場に声をかける。
人々の間から、髪をオールバックにした年配の男性が進み出て、壇上に上がった。
「河田です。本日は伝統ある奈良学院の内輪の集まりに招きいただき、光栄です」
河田謙介は、よく響く声で挨拶を始めた。往年の映画俳優のように整った顔をしている。そう言えば、女性に人気の政治家として、週刊誌に取り上げられたのを、瑞希も目にしたことがある。
「奈良瑛明学院大学と付属高校、付属中学高校、小学校、そして、新設される付属幼稚園のますますの繁栄のために・・・」
嶋野が突然、壇上から降りた。
グラスを手に、人ごみを縫って、悠々とこちらに歩いてくる。
「乾杯」という河田の声を、嶋野は背中で聞いた。かなり礼を失した行動だが、壇上の誰ひとり気にする風もない。嶋野に遠慮しているというより、彼の存在を無視しているように感じられた。
瑞希たちの傍まで来ると、嶋野は鷹揚に片手を上げた。
「紘一君、ごくろうさん」
「夏季休暇中の大学なんて、特にお見せする物もないので、こちらにきてしまいました」
「こっちにはもっと何もあるまい」
嶋野は不意に、壇上に視線を走らせた。
「学問の場で、政治家に我が物顔をさせてはいかんよ」
「そうですね。しかし、理事長としては、幼稚園新設のことがが頭にあるんですよ、きっと」
小声で、取り成すように、紘一が言う。
嶋野は小さく息を吐き、瑞希に顔を向けた。
「これを一杯吞んだら、戻って話の続きを始めるとするか」
軽くグラスをかかげてみせてから、ゆっくりと口に運んだ。
一口飲み、嶋野は突然、「グフッ」と呻いた。
手で喉を押さえ、身体を九の字に折る。
グラスが床に落ちて割れた。
喉を押さえていない方の手が、宙を掴もうとするように上下に動いた。
「嶋野教授」
手を伸ばし、瑞希は呼びかけた。
その声に反応したように、嶋野は、瑞希の肩口を強く掴んだ。襲い掛かるように、瑞希を抱きつく。嶋野の顔が、瑞希の耳に押し付けられた。
「ちくしょう。やっぱり来たか」
耳元で、呻くような嶋野の声がした。
「教授?」
「まだ早い。まだ・・・」
カッと目を見開き、嶋野は瑞希を見据える。片頬を歪める。喘ぐような呼吸の間から、また声が絞り出された。
「しっかり見ろ。これが答えだ」
「答? え? 」
「あんたが知りたがっていた・・・・これが答えだ」
呻くように言って、嶋野は膝から崩れる。
瑞希は足を踏ん張り、両手で嶋野を支えた。瑞希の身体にしがみつきながら、嶋野がよろよろと立ち上がる。
突然、嶋野は瑞希を手を払いのけた。大きく足に踏み出す。
行く手を阻む瑞希を押しのけ、前に行こうとしている。
ものすごい気力だ。たぶん、最後の力を振り絞って、嶋野は前へ行こうとしている。
前へ、前へ。
「きょ・・教授」
嶋野を抱きかかえたまま、瑞希はタタラを踏んで後ろに倒れた。
つづく