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小説 「聖を殺した」3

           

「なんでこんなことになったんだ?」

 石丸が大きな声で言った。
 瑞希は首を横に振った。何が何だか一番分かっていないのは瑞希なのだ。
 嶋野と抱き合って倒れた後のことは、まるで悪夢だ。
 顔を歪め、身体を硬直させて、嶋野は瑞希に覆いかぶさっていた。瑞希はその身体から逃れようと必死であがいた。
 二人の周りには、結界でも張ったような空間ができていた。

(何があったの?)
(何をしたんだ、この女)

 結界の向こうで客たちが、口元を押さえ、立ち尽くしていた。
 紘一が結界を破って近づき、無言で瑞希を助け起こした。その目は、瑞希ではなく、嶋野に向けられていた。青ざめ、引き結んだ唇の端が、小さく震えていた。
 やがて、紘一はそっと手を伸ばし、見開かれた嶋野の眼を閉じた。

 嶋野肇は死んだ。

 何も考えられず、ホールの隅に座り込んでいると、警官が群れをなして、会場に飛び込んできた。
 彼らは嶋野の遺体を確認し、客たちと何か話していると思ったら、特に屈強そうな警官が瑞希に近づいてきた。
 瑞希はそのまま、奈良県警に連れていかれた。
 狭い部屋に押し込まれ、今度は二人の私服刑事に「事情を話せ」と責め立てられた。細くて背の高い男と、四角くて背の低い男、鉛筆と消しゴムみたいなコンビだ。
 いろいろしゃべった気がするが、頭が真っ白になっていたから、あまり覚えていない。
 嶋野の最後の言葉が、特に問題になった気がする。
「やっぱり来たか」と言っていた、と言ったら、鉛筆が「何がきたのでしょうね」と訊いた。
「知りません」と答えた。
「これが答えだ」ども言っていた、と言ったら、消しゴムが「何の答だ」と怒鳴った。
 それも「知らない」と答えた。
 鉛筆と消しゴムは、顔を見合わせた。

(この女、使えない)
(うん、まったく使えない)

 そんな会話が聞こえてきそうな眼付だった。
 唐突に「もういいよ」と言われ、部屋から出された。
 婦人警官に伴われ、建物の外に出た。
 いつの間にか、すっかり暗くなっている。
 街灯の下に、石丸がぼんやり立っているのが目に入った。驚いた。

「なんでこんなとこにいるのよ」
「おまえが呼んだんだろうが」

 石丸は眼を剥いた。
 そう言えば、そんなことを言った気がする。

 —— 石丸を呼べ。何もかもあいつのせいなんだ。あいつを、石丸を、ここに呼べ。

「おかしなことをわめきやがって。お陰で、いきなり犯人にされかけたわ」
「はい?」
「疑いはすぐに晴れたさ。俺みたいに見るからに善良なら、お前も2~30分で解放されたんだ」

 確かに顔は童顔だが、善良と言うには言動がいちいち胡散臭いではないか、と思ったが、それは口には出さない。

「この男、使えないって思われたのよ」

 ボソリと言い返した。

 石丸は車で来ていた。
 駐車場の途中で立ち止まり、空を見上げた。星が瞬いている。足元がふらつく。身体が鉛でも飲んだように重い。半日近くも取調室(あそこはきっと取調室だ)にいたのだ。つかれて当たり前だ。
 石丸の車は、撮影機材を積んだ中古のワゴンだが、それでも電車を乗り継いで帰ることを思ったら、天国だ。
 瑞希は神戸の東灘に住んでいる。駅からアパートまでは近いが、奈良から神戸までは遠すぎる。

「ありがとう」と、唐突に声が出た。

 石丸は、わざわざ駆けつけたことを感謝されたと思ったらしく、
「気にするなよ。大変だったな」と慰めてくれた。

 車が高速に乗っても、石丸は黙って運転していた。
 瑞希も無言で、ぼんやりと窓外を見た。
 外は暗く、車の窓ガラスに瑞希の顔が映り込んでいた。きつい眼をしていた。いっそ、険しいと言ってもいい眼だ。
 高校2年の時に、瑞希は付き合っていた男子生徒に、眼がコワイ、という理由で振られたことがある。

—— 眼力が強いんだよ。睨まれると身体が竦むんだ。落ち着かないんだ。

 その頃、彼はすでにほかの女の子と付き合い始めていたから、あれは単なる言い訳だったのかもしれない。しかし、以来、瑞希は意識して、人や物をしげしげ見ないようにしている。それでも時々、同じ指摘を受ける。
 石丸にも、豹みたいな眼だな、と言われたことがある。
 そう言えば、嶋野無遠慮に人を直視する男だった。顎を引き、下から救い上げるように。
 ただ、瑞希が睨んでも、嶋野は身をすくませたりはしなかった。
 視線のことなど、気にする余裕もなかったが、そもそも気にする必要も、なかったのかもしれない。

 なんとはなしに、瑞希は自分の手を見た。
 嶋野の死を、この手で受け止めたのだと思った。その重みが、じわりと身体を包んだ。なんの因縁だったのだろう。

「青酸カリらしいよ」

 石丸がポツリとつぶやいた。

「え?」
「死因。嶋野さんが飲んでいた酒に入っていたらしい。自殺か他殺かはまだ不明だそうだが」
「あれが自殺のわけないわ。大体、青酸カリなんて、大学教授がどうやって手に入れるのよ」
「大学ってのは、意外にいろんな薬品が揃ってるところなんだよ。医学部や工学部の研究室や実験室にさ」

 嶋野はこともなげに言って、瑞希の顔を覗き込んだ。

「取材は? レクチャーはちゃんと受けたのか?」
「少し」
「聖徳太子を殺害した人物の名前は?」
「それはまだだった」
「・・・そうか」

 石丸はあからさまに落胆した様子で、
「とうとう永遠の謎になったか」と呟いた。

「永遠の謎ってことはないでしょう。こっちで調べればいいわけだし、他の歴史学の説を聞くことできるもの」

 そもそも嶋野から話を聞けていたとしても、それが正しいと断言することはできない。歴史にはそういう側面があり、だからこそ、人々の想像をかきたてるのだ。

「俺は嶋野さんの説が知りたかったんだ」

 石丸が、またつぶやく。
 瑞希は石丸の横顔に眼を向けた。
 YHIエンタを立ち上げたばかりの石丸は、関西中のテレビ局や大手のネット配信会社に企画を持ち込み、精力的に売り込んでいる。
 石丸がまだテレビ局の勤めていた頃から、瑞希は何度か一緒に仕事をしているが、彼女の知る限り、石丸の企画に歴史を扱ったものはなかった。『聖徳太子の光と影』などという硬派の企画を、石丸が持っていたこと自体が不自然なのだ。
 まず嶋野ありき、の企画だと考える方が自然だ。

「嶋野教授と石丸さんって、いったいどういう関係なの?」
「言っただろ? 学生時代、俺が下宿してた部屋の隣りに、嶋野さんいたんだ」
「年がぜんぜんちがうじゃない」

 石丸は確か、45~6歳。嶋野は50を過ぎていたはずだ。

「嶋野さんは院生だったからな。あのころはもう25~6になっていたと思う。俺は入学したばかりだった」
「どこの大学?」
「京都大学・文学部」
「石丸さんは?」
「だから、京都大学文学部。嶋野さんの後輩だよ」
「・・・頭、よかったんですね、石丸さんって」

 思わず言ってしまった。しかも敬語になってた。
 「まあね」と軽く流して、石丸は話を元に戻した。

「どういうきっかけかは忘れたけど、嶋野さんの部屋で一緒に飲んだことがあるんだ。夏頃だったかな。俺は未成年だったから、コーラの中にウィスキーをちょっと垂らしてもらってな。飲みながらいろんな話をした。そのうちに嶋野さんが、聖徳太子が誰に殺されたか知ってるか、と訊いてきたんだ。こっちは聖徳太子なんて、受験に必要なことくらいしか知らないから、そう言った。すると嶋野さんは古代史の概要をざっとさらってくれてね。いよいよ、聖徳太子を殺した人物は、ということになったんだが・・・」

 部屋のドアがノックされたのだという。

「嶋野さんが、ドアを開けると、すごい美人が立っていたんだ。なんかこう思いつめた眼をして、嶋野さんを見つめているんだけど、その眼が、照明の加減なのか、妙に輝いていてね。俺までドキドキしたな」

 石丸は急ににやけた。美人に弱いのだ。思い出の美人にまで、にやけてどうする。

「それで?」と、冷たく先を促した。

「嶋野さんはすぐに、その美人を押し出すようにして、廊下に出た。ドアは閉めてたけど、言い争っているような声が、部屋まで聞こえた。いろいろ気になって、こうドアに耳を寄せて」
「盗み聞きしたの?」
「まあ、そういうことだな。話の内容が全部聞こえたわけじゃないが、嶋野さんがその美人を一生懸命なだめているようだった。

—— それはもう忘れろ。君が悪いんじゃない。
—— このまま、突っ走るしかないよ。
—— 大丈夫。僕が付いてる。何も心配いらない。

 嶋野さんのそんな言葉が、とぎれとぎれに聞こえた。それに対して、その美人が、

—— 信じていいのね。本当ね。私を護ってくれるのね。

 と言った。か細い、囁くような声だったが、不思議なことに、嶋野さんの声よりはっきり、こっちの耳に届いたんだ。変な例えだが、夏の暑い時に、冷たい清流の音を聞いたら、思わずそっちに吸い寄せられるだろう。そんな感じの声なんだ」

 確かに変な例えだ。すごく分かりにくい。清流は聞き流すことにした。

「それで?」
「嶋野さんは、解ってる、僕が護るから、なんて言ってたな。そりぁ、あんな声で、護ってと言われたら、男はそう答えるさ。で、嶋野さんはすぐに、部屋に戻ってきたが、その時の顔が真っ青だったんだ。びっくりして、どうしたんですか、と訊いたら、奈良に戻る、という。僕は奈良に戻る。これは聖徳太子の祟りなんだ、と言った」
「祟り? 嶋野教授は石丸さんにも祟りだと言ったの?」
「おまえにも言ったのか?」
「聖徳太子は触ると祟るよって」

 思わず、顔を見合わせた。車中の温度が一瞬下がった気がした。
 くぐもった声で石丸が続けた。

「嶋野さんはすぐに奈良に戻った。下宿も引き払い、いつのまにか大学院からも去っていた。ところが、それから一か月くらい過ぎたときだったかな。突然、電話がかかってきた」
「嶋野教授から?」
「ああ。そして妙に暗い声で言ったんだ。自分のことで、誰かが、何か訊きに訪ねて来るかもしれないが、あの晩、彼女が下宿に来たことは言わないでほしい、と。それから、聖徳太子の話も忘れてほしいと念押ししていた」
「何それ・・・」

 意味が分からない。さあ、と石丸も首を傾げたていた。

「詳しく訊こうとしたが、すぐに電話が切れたてしまったんだ」
「その後は? 教授の言ったように、誰か訪ねて来たの?」
「いや。そういうことはなかった」
「石丸さんから問い合わせたりもしなかったの?」

 石丸は、力弱く首を振った。

「人づてに、嶋野さんが、奈良瑛明、文学部史学科で助教授として教えることになったらしい、と聞いただけだよ。その後、教授になり、財団法事の理事として経営にも携わるようになったと、これも風の便りで聞いただけだ。こちらから連絡すると、嶋野さんが嫌がりそうな気がして、出来なかったんだ」

 叱ったわけでもないのに、肩を落として、言い訳するように言う。

「その美人はどうなったの?」
「俺も後になって知ったんだが、あの下宿での出来事から、2週間もしないうちに、奈良瑛明の理事長と結婚してるんだ。北見百合絵。現理事長だよ」
「あの人・・・」
「会ったのか?」
「ちらっと見た程度」
「今も美人だったか?」

 この期におよんでも、そこはスルーできないのか、と思いながら、
「ええ、すごい美人だった」と答えた。

「てっきり嶋野さんとあの人は結婚したと思ってたんだがな」

 石丸がいまさらのようにつぶやく。
 ふと、紘一の言葉を思い出した。

—— 嶋野は僕の父の従弟なんです。

 嶋野は、従兄の婚約者の要請に応えて、奈良に戻ったということなのだ。
 従兄の要請なら解かるが、従兄の婚約者の要請・・・しかも、それは対外的には、石丸に口止めまでして、公にはしたくない類のことなのだ。

「嶋野さんは本当に優秀な先輩だったんだ」

 石丸が思い出したように言った。

「京大の学内でも将来を嘱望されてた。奈良英明がいくら名門だと言っても、私立大の教授で終わる人じゃないんだよ、嶋野さんは」
「でも・・・」

 瑞希は、言葉を濁して考え込む。
 嶋野は、奈良英明大では、一週間に一単位しか教えてないと言っていた。懇親会でも、財団経営の中心からは外れていることが伺えた。
 石丸の知っている嶋野と、現在の嶋野はかけ離れている気がする。

「とにかく、そんなことがあって、聖徳太子が、俺の頭に、いつも引っかかっていたんだ。嶋野さんから、あの話の先を聴きたいというのもあった」

 言い終えると石丸は、この話からはもう抜けたい、とばかりに仕事の話を始めた。
 曰く、営業戦略上、畿内の太子ゆかりの土地や寺を観光スポットとして紹介したい。暑いのはゴメンだから、9月末からのロケが望ましい。

「こんなことになって、俺は権威付けの先生を探す手間が増えたが、基本的なところでの変更はないからな」

 変更はない? そうだろうか。はっきりとトーンダウンしているではないか。
 顔合わせの時の熱気が、まるで感じられない。
 深夜のドライブで、石丸も疲れていたのかもしれないが・・・






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