目の前で起こった自損事故から学ぶ、「ひきこもり」解決への道
先日、ショッピングモールの駐車場から出る際、目の前の車が縁石に乗り上げ、亀になるのを目の当たりにした。
これが、単純な車の操作ミスでのことであれば、「あーあ、やっちまったな」程度にしか思わないのだが、
そこの駐車場の出口は、右折での出庫が出来ないように、道路のセンターライン状に、オレンジ色のポールが立ち並んでいて、左折でしか出られない設計になっている。
しかし、前の車は、何思ったのか、少し後退した後、無理矢理右折して出ようとしたのだ。
おそらく、逆走してでも右折して出たかったのだろう。
普通に右に出ようとすれば、ポールにぶつかるので、それを避けるため、少し車を後ろに下げて出ようとしたのだと思われる。
結果、縁石に乗り上げ、亀になって身動きが取れなくなった。
これを目の当たりにして僕が思ったのは、自分が得たい結果のためには、交通ルールといった、個人の都合ではどうやっても変えることの出来ないことを無視してでも、法に触れようが自分の得たい結果を得ようとするその心意気に、「この人すげぇな」と、いろんな意味で感心した。
縁石に乗り上げた車は、レクサスだっただけに、自分が得たい結果のためには手段を選ばないことや、そういうことをしないとレクサスに乗れないのかとすら思ったほどだ。
だけど、お天道様はちゃんと見ていて、理を無視すれば、望んでいない結果を招くこととなる。
これは良い教訓と言える。
以前、ある番組で、林修氏と森岡毅氏(株式会社刀代表取締役兼CEO。USJ入社後、開業以降低迷していたUSJをV字回復させるなど、幾つもの事業を立て直した、日本屈指のマーケター)との対談で、こんなことを言っていた。
この対談で言っていたことを、「縁石に乗り上げた車がしたこと」に置き換えると、交通ルールや、左折しかできない設計といった、右折ができない状況という「定数」を、その運転手は、右折して出るという「変数」に変えようとした事になる。
かなわぬ努力をした結果、縁石に乗り上げ、身動きが取れなくなった。
このような叶わぬ努力をしたことで、どれだけの時間とお金という代償を支払うことになったのだろうか。
素直に左折し、迂回して、自分が走ろうと思ってた道に出るまで、おそらく、5分〜10分も走らせれば、本来自分が走ろうと思ってた道に戻れたはずだ。←『変数』
ひきこもりに悩む親の多くも、実は、これと同じようなことをしている。
だが、そのことに気づいている人はほとんどいない。
何が同じかと言うと、
『人は変えられない』という定数を、『人を変える』という変数にしようとしていることだ。
その結果、子どもとの関係が悪くなる(望まぬ結果を招く)。
まさに、冒頭のエピソードの、縁石に乗り上げた車そのものではないだろうか。
ひきこもりに悩む多くの親をはじめ、世間一般でも、この違いを理解している人は多くない。むしろ、『変えられる』と勘違いしている人の方が多いんじゃないだろうか。
そもそも、人が変わる時というのは、自分自身が、『変わろうとする強い意志』があって、初めて人は変化を起こす。
これは、元アメリカ大統領のビル・クリントンやサッチャー元首相、故ダイアナ妃など、数多くの世界的にも有名なリーダーたちを指導し、成功に導き、世界中の数えきれない人たちの人生に変革を起こし続けている、世界No.1コーチとしても有名なアンソニー・ロビンズ(トニー・ロビンズ)の言葉だ。
数えきれない人たちの人生に変革を起こし続けてきた、アンソニー・ロビンズでさえ、このように言うのだから、『人を変える』というのは、どれだけ大変なことかが分かるのではないだろうか。
だが、多くの人は、口うるさく、とやかく言えば『人は変わる』と思っているのではないだろうか。
このような勘違いの最大の理由は、子育てでの経験や、親や学校の先生など、周りの大人たちによる影響にあると僕は思っている。
ひきこもりに悩む親をはじめ、子育てを経験してきた多くの親は、口うるさく言うことで、子どもの行動を変えてきた経験があると思う。
宿題をやらないので、口うるさく言うことで、宿題をやらせた。
おもちゃや部屋を散らかし、それを片付けさせるために、厳しい言葉を投げることで、片付けをやらせる。
ゲームをいつまで経ってもやめないので、ゲームで遊んでいる近くを掃除機をかけるなどして、無言の圧力をかけ、ゲームをやめさせた。
などなど。
だが、これは、子どもを変えたのではなく、口うるさく言うことで、子どもを従わせただけのことだ。
とは言っても、その後、口うるさく言わなくても、何かを言う前に、子どもが行動するようになったという経験を持つ方もいることだろう。
これは、『子どもを変えた』のではなく、『子どもが知恵をつけた』だけに過ぎない。
また怒られないため。
あれこれ言われるのが鬱陶しい。
不快な気持ちになったり、気分を害する。
などなど。
こういった、心理的な痛みを避けるために、先手を打って行動しているだけで、こういったものは『条件付きの行動』と言える。
ここが、ひきこもりに悩む親をはじめ、多くの人が、口うるさくとやかく言えば『人は変わる』と勘違いをする一番の原因だ。
人によっては、「これの何がいけないんだ」と思う人もいるだろう。
子どもを躾ける時は特に、痛みを覚えさせたりすることで、二度と同じことをしないように教えることもあるのは事実だ。
そうしないと、命に関わることだったり、大惨事を招くこともあるので、痛みを与えるというのは、決して間違ってはいない。
だけど、ある程度の年齢を重ね、さらに知恵をつけることで、「心理的な痛みが伴っても構わない」と思うようになってしまったり、「一時的に我慢すれば凌げる」と思うようになれば、どんなに口うるさく「あーだ、こーだ」と言っても行動しなくなる。
いつまで経っても子どもが変わらないと、子どもの「ひきこもり」に悩んでいる人は特に、このような状況は身に覚えがあるのではないだろうか。
子どもの「ひきこもり」に悩んでいる人にとっては、親が、どんなに子どもを変えようと努力をしても、それはすべて無駄な努力のように聞こえるかもしれないが、そうではない。
これまでの話を思い返してみてほしい。
『人は変わらない』という『定数』を『変数』にしようとすることは、無駄な努力と言わざる得ない。
だけど、変わり『たくなる』ようになる、行動し『たくなる』ように働きかけることは出来る。
ここが何よりも重要!
これが、これまでの話でいうところの『変数』に時間と労力をかけるということだ。
子育てなどでこれまでやってきたように、痛みを与えるというのは、行動を促すには、最も単純で簡単な手段の一つだ。
だが、痛みを与えることで行動を促すというやり方は、奴隷を支配するやり方と同じであることをここで伝えておきたい。
もし、「子ども」というのは、親の奴隷のように生きるのが然るべきことだと思っていたり、子どもを奴隷のように扱うのは、親の権利、特権だと思っているのであれば、その人はきっと、さぞかし立派な御身分の方なんだろう。
繰り返しになるが、痛みを与えるというのは、行動を促すには、最も単純で簡単な手段の一つだ。
だが、痛みを与えるというのは、『反発』という代償を伴う危険がある。
その『反発』が、無視をされたり、言っても聞かないだけならいいが、暴力沙汰に発展したり、最悪の場合、「親殺し」という、あってはならない事件に発展することだってあり得ることを、決して忘れてはいけない。
これまで、痛みを与えることで、子どもや誰かの行動を変えることが出来たと思っている人にとっては、それ以外のやり方がわからないという人もいるだろう。
変わり『たくなる』ようになる、行動し『たくなる』ように働きかけるヒントは、開業以降低迷し続けていたUSJをV字回復させた、森岡毅氏の戦略に、そのヒントがある。
森岡氏の戦略というのは、一般の人以外にも、「ひきこもり」の子どもにも非常な有効な手段だ。
ここまで、かなり長い内容になってしまっているので、この続きは、また次の機会にお伝えしたいと思う。
最後まで読んでいただきありがとうござました。
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〜追記〜
これまで投稿してきた記事は、「です・ます調」で書いてきましたが、今回は少し趣向を変えて「だ・である調」で書いてみました。
文体を変えてみた個人的な感想ですが、ぶっちゃけると今回の「だ・である調」の方が、書きやすかったというのが、正直な感想です。
僕は、自分では「良い人」だとは思っていないため、これまでの「です・ます調」だと、なんか良い人に見られようとしている感が拭えなかったり、書きながら、この言い回しは反感を食らうんじゃないかなど、内心ビク付きながら書いてきたというのが、これまでの僕です。
「だ・である調」の文体の方が、自分らしさや、僕というキャラがわかりやすく伝わるのかもしれません。
もしかしたら、今後も、この「だ・である調」で書くこともあるかと思いますが、うまく使い分けるなどして、うまいことバランスが取れたらなと思います。