
【ひきこもり問題解決】 見守り、ただ待ち続けても、子どもは変わらない。
ひきこもりの相談において、保健所や家族会など、どこに相談しても、まず一番に言われるのが、「見守りましょう」というものです。
このアドバイス通り、従っている方も多いのではないでしょうか?
ですがどうでしょう?
見守り、子どもが変わるのを待っていても、大して変わらないというのが正直なところではないでしょうか?
率直に言ってしまうと、
見守り、ただ待っていても子どもは変わりません。
誤解がないように言っておくと、何一つ変わらないのではなく、多少の変化は見られても、そこから先の進展がなかったり、「ひきこもり」そのものから脱しないという意味での『変わらない』です。
中には、ただただ待ち続けた結果、ひきこもりから抜け出したというケースは確かにありますが、それが、10年なのか20年なのか、どのくらいの年月を要するのかはハッキリ言って不明です。
このようなケースの場合、親がもう子どもの社会復帰等は完全に諦めていて、自分達が先立とうと、とりあえず穏便に暮らせさえすれば良いと思っている中、なんかわからないけど外に出るようになった、なんかやりはじめたといったところだと思います。
このようなケースでも、なぜ、子どもに変化が訪れたのかについて、お伝えできることはありますが、今回の内容の趣旨とは少々変わってくるため、このことについては、機会があればどこかでお伝えできればと思います。
話を戻しますね。
見守り、ただ待っていても、子どもが変わらない理由として考えられることとしてあるのが、
「見守る」の認識がズレている。
「見守る」必要性が見えていない。
の2つだと僕は見ています。
「ひきこもり」という問題が長期化する原因の一つに、『認識のズレ』というものがあります。
こちらの記事でも、触れていますが、
『認識のズレ』というのは、その人の価値観などからなるものなのですが、その人の認識が違えば、当然、それに対する考え方も変わってきます。
「見守り、待ち続けていても、子どもが変わらない」と、嘆く人ほど、『見守る』というのは、子どもが癇癪を起こさないようにするためだったり、暴力沙汰や、あってはならない事件に発展させないために、ことを荒立てないために必要なことだと思っているように見受けられます。
『見守る』というのは、『何もしない』、『待つ』、『余計な口や手を出さない』といった意味での認識を持っている方も多いかと思います。
『見守る』というものに、これらの要素があるのは確かです。
しかし、この『見守る』というものに、ある前提があるかどうかで、その意味が全く変わってきます。
『見守る』というのは本来、『信じる』というものが前提にあるものです。
子どもが産まれて間もない頃、ハイハイしか出来なかったのが、自らの足で立ち上がったり、歩こうとした時、あなたは子どもの動向を見守ったかと思います。
その時の気持ちというのはきっと、転びやしないか、ハラハラドキドキしながら、子ども自身の力で出来ることを信じ、その経過を見守ったかと思います。
これが、本当の『見守る』です。
そしてもう一つの、『「見守る」必要性が見えていない。』についてですが、
これもまた、「見守る」必要性が、自身の保身のためのものによる、ことを荒立てないためと勘違いしていることが考えられます。
このような勘違いがなぜ起こるかというと、あなたの悩みを聞き、アドバイスをする側が、ことを荒立てないために「見守る」という言葉を使っていることがよくあるからです。
また、アドバイスをする側が、『見守る』という認識がズレたまま使っていることもあるので、ここは本当に注意が必要です。
「ひきこもり」という問題をあつかう上での『見守る』というのは、ひきこもりの子どもが、自らの意思で脱するための環境作りにおいて、すべての土台となるものであり、親に求められるスキルでもあります。
「見守る」というのは、本来『信じる』という前提があってのものだと上述しましたが、親に求められるスキルというのは、まさにこの『信じる』というものです。
『信じる』というのは、本来、スキルといった技術ではなく、在り方から来るものではありますが、スキルと称した方が、自分に足りていないものが何なのか認識しやすいと思ったので、このような言い方をしました。
「見守る」というものが、自分のためにやっているのと、子どものためにやっているのとでは、その意味や性質が全く異なります。
あなたは、誰のために見守るという選択をしているのでしょうか?
自分の胸に手を当ててよく考えてみることをお勧めします。
今回は以上です。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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