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「日本における文化受容のパターン」国民国家論を読んでみて
手元にあった増補『国境の超え方』国民国家論序説を読んでいた。
ここでは、「日本における文化受容のパターン」について読んだところからまとめてみたい。
まず、はじめに本書では掲載されている『図5支配的イデオロギーとしての欧化主義と日本回帰』について説明する。第1の欧化の時代(鹿鳴館、自由民権)文明~第1の回帰の時代(日清、日露戦争、大逆事件)国粋1~第2の欧化時代(大正デモクラシー)文化1~第2の回帰の時代(15年戦争、転向)となる。図5を見ないと分かりずらいがこのような形でこのような形で欧化と回帰を繰り返す。
「文明」
日本で言えば鹿鳴館、自由民権を頂点とした欧化の時代を「文明」の時代であったとしている。
「文明」とは理念的には人類の進歩と普遍的な価値の確立をめざすものであるが、現実的には国民国家形成を実現した西欧先進諸国(英・仏)の支配と拡張をめざす国民意識であった。「文明」イデオロギーによって、世界は文明と野蛮(あるいは文明と半開と未開)に二分され、植民地支配は文明による野蛮の文明化として正当化される。明治国家は「文明」(開化)の名のもとに先進国民国家である列強の仲間入りを果たしたのであるが、それはまさしく「文明」概念の(表裏一体の)実現であった。鹿鳴館は政府の側からの戯画的な開化のシンボルとなったが、しかし政府の側の近代化に批判的であった福沢諭吉が例えば『文明論之概略』で説いたのは真の国民国家にふさわしい国民(ネイション)の形成であって、国民国家(Etat-Nation)の国民(Nation)を強調するか国家(Etat)を強調するかの違いはあれ、文明=国民国家の形成という共通の問題意識のなかでのちがいであった。
「文明」とは国民国家形成を実現した英・仏が支配拡張をめざす国民意識であったことがわかる。そのことにより世界は文明と野蛮に二分され植民地支配は文明化として正当化される。明治における日本では、「文明」の名のもとに先進国民国家である列強の仲間入りを果たした。また、政府の近代化に批判的であった福沢諭吉が『文明論之概略』で説いたのは真の国民国家にふさわしい国民(ネイション)の形成であった。
「文化」
日本で言えば、大正デモクラシーや戦後デモクラシー(ここでは触れない)を頂点とした欧化の時代を「文化」時代であったとしている。
つまり、第二次欧化は英仏流の欧化(文明化)ではなく、ドイツ流の、ヨーロッパにおける後発の近代国家をモデルにした欧化であった。そして第一次の欧化(「文明」)と第二次欧化(「文化」)を結びつけたのは「国粋」概念であった。そのことは明治期に最初に「文化」という用語を意識的に用いたのが、『日本』『日本人』によってnationalityの訳語としての「国粋」主義をとなえた陸羯南や三宅雪嶺であったこと、また『日本文化史研究』(大正一三)の著者内藤湖南は三宅雪嶺の『真・善・美・日本人』(明治二四)の口述筆記者の一人であったという事実によって、見事に示されている。英仏、とりわけフランス的な価値としての「文明」に対抗してドイツで形成された「文化」概念は次第に、文明の物質性に対する精神性、文明の普遍性に対する個別性を強調するようになっていったが、明治末年から大正時代にかけて欧化主義が取り入れたのは、そのような形での「文化」であった。これは明治政府が憲法制定や軍事政策を契機として近代化のモデルを英米仏から独に切りかえていったことの一つの結果でもあった。
ここで整理したいのは、「文明」=フランス的な価値であり、つまり、物質性、普遍性が当てはまることと、「文化」=ドイツで「文明」に対抗して形成された概念であり、それは精神性、個別性が当てはまることである。
上の引用で言う、第一次の欧化(「文明」)と第二次の欧化(「文化」)を結びつけたのは「国粋」概念であった。と言うのは、上記に説明した図5から言うと第1の欧化の時代~第1の回帰の時代~第2の欧化時代が当てはまる。
さて、日本は第一次の欧化ではフランス的価値「文明」を取り入れ、第二次の欧化ではドイツ的価値「文化」を取り入れた。第一次の欧化の頂点として鹿鳴館と自由民権運動が挙げられる。第二次の欧化の頂点として大正デモクラシーが挙げられる。
「文明」はフランス産、「文化」はドイツ産、一つのパターンとして受容された例を挙げた訳だが、図5の他に当たる部分も今後時間があればまとめてみたい。