【エッセイ】お酒は20歳になってから
——ひょっとして、AVANTIをお探しですか?——
土曜日の夕方5時、当時小学生だった僕は、毎週この紳士にこう話かけられていた。スイミングスクールの帰り、父親の車のラジオから聞こえてくる声の主であるこの紳士に、僕は道案内をしてもらって、AVANTIに向かう。
——東京は元麻布、仙台坂上のこの辺りは古くからの屋敷町。そしてこの路地を曲がった先の…ほらあそこ。あそこが、お探しのイタリアンレストランAVANTIの入り口です。なんとも目立たない入り口ですが、土曜日夕方、この店のウェイティングバーは、常連客が集まって賑やかになるんです。さあ、着きました。私が扉をお開けしましょう。——
そうして、AVANTIの入り口まで案内された僕は、店内に入る。ハネるジャズピアノ、常連客のざわめき、シェイカーの音。アメリカ人バーテンダーの言う片言の「いらっしゃいませ。」が聞こえる。
——やあジェイク。ウィスキー、いつもの。——
大体いつもこの辺りで、父親の車は家に着く。僕は車を降りて家の中に入る。結局今日も、早々にAVANTIから立ち去ることになる。
毎週僕をAVANTIまで案内してくれる紳士は、そのバーでウィスキーを舐めながら、他の常連客の会話を盗み聞きするのを楽しみにしていた。
Frank SinatraやDean Martinをはじめジャズに造詣の深いその紳士は、どうやら大学で教授をしているらしい。そういった設定のラジオ番組が放送されていた。
中学生になって部活を始めると、土曜日の夕方にラジオを聴くことがなくなり、結局その紳士とは会わなくなっていった。お酒は20歳からだったから、僕はコーラとかサイダーとか、スポーツ飲料とかを飲んでいた。そのうち、AVANTIのことも、あの紳士のことも忘れてしまった。
大学生になって上京しても、仙台坂に行くことはなかった。大学生の4年間を東京で暮らすことになったわけだけど、結局仙台坂に行くことさえなかった。その間に僕はお酒を飲めるようになったけど、割と早い段階で自分は下戸だと気づいて、若者の割にはお酒とは縁遠い学生時代を過ごすことになる。もちろんウィスキーも飲んだけど、あの焼けるような喉ごしが最初は苦手だった。そんなこともあって、AVANTIのことを思い出すこともなかった。これが、僕の大学時代の小さな後悔の一つになるとは、このときはまだ知らなかった。
大学を卒業して4年が経った。ふと、あの小学生の頃の土曜日の夕方のことを思い出した。調べてみたら、そのラジオ番組はもう放送を終了していた。20年以上続いた番組で、多くの人に惜しまれながら終了したらしい。
あの頃、大人になるとは、あの紳士みたいに、行きつけの店を見つけて、「いつもの」の一言でお気に入りのお酒が出てくるような、そんな人になることだと思っていた。
僕は今、この記事をとある喫茶店で書いている。静かで穏やかに時間の流れるカフェで、行きつけというほど頻繁には足を運ばないが、気に入っている店だ。もちろん「いつもの」とは、まだ言えない。そんな場所で今、十数年前によく聞いていた、あるラジオ番組のオープニングを思い出しているわけだ。
最近のメディアは、時間感覚を失いつつあると思う。テレビも、ラジオも、YouTubeも。例えば、現在放送されているとあるニュース番組では、深夜の番組なのにスタジオは目に痛いほど真っ白なのだ。音楽も耳障りなほどうるさい。AVANTIを聴いていた頃とは何もかも勝手が違うようだ。最近のメディアは、沈黙と空白を統制する能力を失っているように思える。
AVANTIのコマーシャルは、番組の空気を壊さないようなものだった。静寂や空白さえ逆手にとる姿勢のコマーシャル。バーにいるという番組の設定を決して壊すことなく、AVANTIにリスナーを浸らせてくれる。リスナーではなく、お客さんでいさせてくれる。そんな気遣いに溢れたコマーシャルだった。
昔のテレビだってそうだった。深夜になれば、音楽や色彩はアダルトになり、ちゃんと疲れた時間帯の視聴者のテンションに合わせた番組が作られていた。昔のメディアには、ちゃんと「夜」があった。
YouTubeもテレビも含めて、コマーシャルが番組やコンテンツを邪魔する鬱陶しいものに成り変わっているのは、こうしたメディアの受け手への配慮に欠いた制作や配置が原因なのではないだろうか。受け手への配慮に溢れたコマーシャルはむしろ歓迎されるのだ。「いつものウィスキー」のように楽しめるコマーシャルが、あまりにも少なすぎる。
今はどのコマーシャルも、派手さや華やかさを競い合うものでしかないように見える。静寂や空白、暗闇を恐れているかのようだ。その結果、ほとんどのコマーシャルは喧しく、目に痛く、下品なものにしか見えなくなる。これは持論でしかないが、派手さや華やかさの競争には頭打ちがくる。というか、すでに限界がきている。もっと派手に、もっと華やかに、もっと奇抜に。このような競争の中で、私たちはきらびやかさのオーバードーズともいうべき状態に陥っている。
そう感じるのは、僕だけだろうか。仮にそうでなかったとしても、そのような意見は所詮、ノスタルジアに浸る、時代に取り残された人間の戯言にしかならないのだろうか。
AVANTIの常連客は実に多様だった。映画監督や芸能人、学者、どこかのメーカーの役員や何かのマニア。そういった人たちが、土曜日の夕方に、店に集まって思い思いの話に耽る。
AVANTIで、とある作家が「内面が好きなんて言ってくる男なんて全然魅力的じゃない。見た目が好きって言ってくる男の方がよっぽどゾクゾクする」という話をしていた。そんな話も、僕は大人になってアーカイブで初めて聞いた。こんな話を小学生から聞けていたら、僕は今頃、もっといい男になっていたかもしれない。でも、そんな話をあの時聞いても、その頃の僕には理解できなかったかもしれない。こういうことも含めて、「お酒は20歳になってから」ということなのだろう。
今、僕は東京には住んでいない。大学時代は東京でそれなりに忙しく、愉快にすごした。でも不思議なことに、東京にいた時に、あの紳士やAVANTIのことを一度も思い出すことがなかった。あの紳士は、今日は誰をあの店に案内したのだろう。
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