見出し画像

短篇小説(連載)忘却の文治(8)

 一階ロビーに降りた文治を、刑事らしい二人連れが待っていた。
「ここではなんですから、ラウンジで」と文治は言いながら、ふたりをラウンジに誘った。
 刑事の二人は、一瞬躊躇したように見えたが、どうせ珈琲代は文治持ちと腹を括り、ボーイにコーヒーを三つ注文した。お互い身分を名乗ったあと、文治が年かさのいった刑事に聞いた。
「ところで、今回はどのような用件でしょうか?」
「実は、朝刊の記事で既にご存じかもしれませんが、『佐々木家』に宿泊していた女性が昨日の朝、死体で発見されましてね。木内様はいつ、佐渡に来ましたか?」
「土曜日、新潟港十四時四十分に出航して、フェリーの故障で日曜日の早朝の四時ごろ、両津港に着きました」
「フェリーの乗客名簿のなかに、あなたの名前がありまして、座席表から、その亡くなった女性の隣の席があなたでしたので、当時の状況などを知りたく、お忙しい中とは思いましたが‥‥」
「そうでしたか。確かに私の隣の座席に、その女性が座っていました。朝刊に顔写真が載っていましたね」
「知りあいでしたか?」
「いいえ、初めて見る顔でした」文治が応えると、その刑事は、鋭い目つきで、文治を見た。
 文治は、その鋭い目つきに、ある種の懐かしさを覚えた。
「その女性の雰囲気はどうでしたか? 知っている限りで結構ですから、お話し願いますか?」刑事の言葉つきや物腰は丁寧だったが、隙を見せれば、攻め込んでくる物腰だと、文治は感じた。
「綺麗な方でしたよ。物腰も柔らかく、品がありました。私には四十代半ばに見えました」
「何か話されましたか?」
「私から一人旅ですか? と聞くと、そうですと答えました。そして、そのフェリーが何かにぶつかったのかエンジントラブルなのか分かりませんでしたが、走行不能になり、日曜日の早朝、やっと両津港に着きほっとしました。そして、フェリー会社で手配した宿泊施設に移動し、仮眠をし、夕方私は宿を探し、ここに投宿しました。そして次の日つまり昨日は一人で佐渡観光をしました」
「その女性とは、どこで別れましたか?」
「今日は火曜日ですので、一昨日の日曜日の夕方、観光案内所に一緒に行き、彼女は高級旅館の『佐々木家』を選び、私は費用の関係で、ここを選び、そこで別れたのです」
 私が応えている間、もう一人の若い刑事は真剣にメモをとっていた。文治は、自分の若い頃を思い出し、懐かしかった。年配の刑事がまた聞いてきた。
「その女性について、なにか木内さんが、気になったことがありますか? どんなことでもいいですので」
「そうですね、言葉の端々の彼女の表情が、なにかあるな? という感じがしました。ある種の匂いですかな」
「ということは?」
「実は私は、十年前まで刑事をしておりました」と文治ははにかみながら言った。
「あ・・、そうでしたか。誠に申しわけありませんでした」と言って、その刑事は名刺を取出し文治に渡し頭を下げた。その刑事の名前を五十嵐といった。
 文治がおもむろに話し始めた。
「私は警視庁第一課で、長らく東京で殺人事件を担当していました。六十の定年まで勤め、いまはふらふらと旅をしています。とはいっても、限られた軍事金の範囲での旅でして・・」と言って頭を掻いた。その刑事が、
「ところで、今回の事件、どう思いますか?」と聞いてきた。
「事件・事故の両面で調査されているとの事ですが? その佐々木家という高級旅館のその部屋の徹底した現場検証が重要になってきますね。新聞記事によると、首を絞められたような跡があると書かれていましたが、床に落ちている髪の毛一本まで調べることが重要ですな」と、文治が初動捜査の重要性を強調すると、五十嵐刑事は、捜査の経緯を詳しく文治に話した。

いいなと思ったら応援しよう!