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短篇小説(連載)星堕ちる⑤
次の日の五月五日の正午前、旅館の主人と、歩いて三十分ほどの土屋と名乗る農家に着いた。
玄関先で事情を話すと、そこのおばあさんが、
「うちに手伝いに来ている お人だったら、厩にいるよ。福田さんだね」と教えてくれた。
旅館の主人と次郎は、母屋の奥の厩に向かった。すっかり春めいてきたその日は、抜けるような良い天気だった。
ピーピーと小鳥の鳴き声がする。
だが、次郎は歩いて数分の距離にある厩までどのようにして歩いたのか、のちに記憶を辿っても思い出せなかった。勿論小鳥のさえずりなど聞こえるはずもなかった。
「おどう!」次郎は振り向いた父の吉蔵に向かって走り出した。父
に会えた! と心の中で叫んでいた。
その日、土屋家の長女で十三歳になる土屋ツネは、学校から帰ると、カバンを家に放り投げ、裏手に流れている修善寺川へ向かって走った。
来年、高等小学校を卒業する予定だ。
学校では試験期間がその日で終わり、ツネはいつもより早く帰宅したのだった。
暫く川原で流れの音を聞いていた。
いつの間にか、小一時間程まどろんでいたが、一陣の風に起こされた。
その風に乗って、人の話し声がした。
ツネは慌てて着物に付いた砂を手で払い、母屋へ駆けだした。
母屋から厩に駆け寄ると、三年前から工藤家で働いている福田吉蔵と、学生らしい男の子が、大声をあげながら抱き合っていた。
ツネは、その二人に走り寄った。そして吉蔵に向かって、
「吉蔵さん、どうしたの?」と聞いた。
「ツネさん、おらの息子の次郎だ」と吉蔵がツネに向かって興奮気味に話した。
ツネは学生風のその若者の顔をじっと見つめた。次郎と目が合った刹那、ツネの心が激しく揺れ、心の中で何かが弾けた。
旅館の主人が帰ってから、次郎と父の吉蔵は母屋で向かい合った。
「次郎、よく来たな」
「・・」
「黒磯のみんな、元気か?」
「うん、元気だ・・」
吉蔵は、伊豆の山並みを眺めながら、
「お前が尋常小学校三年生の時だったな、許してくれよ」
次郎は無言であったが、目の前に父がいることに満足していた。
昼時になり、土屋家の人たちが母屋に集まってきた。昼飯をとるためであった。
吉蔵は次郎が自分の子供で、次男坊であることを説明した。
吉蔵が以前、土屋家に採用になったおり、概ね話しをしていたが、黒磯に家族を置いて修善寺にきたことを、そのとき詳細に話したのだった。
土屋家のおばあさんのカツ、主人の儀一、嫁のサチ、長女のツネ、まだ小さい長男の定男が、吉蔵の話を聞いていた。
聞き終わると同時に主人の義一が、
「吉蔵さん、明日からでもよかったら息子さんも家で働いてくれんかな。いいだろう」と、嫁、おばあさんに同意を得るように話をした。二人とも頷いた。
長女のツネはじっと次郎の顔を見ていた。次郎はその視線を感じ、目を伏せた。
「ご迷惑をかけないようにいたします。次郎どうだ」吉蔵は次郎の方を向き聞いた。
次郎は「よろしくお願いします」と頭を下げた。
土屋家はこの辺りでも大きな規模の農家で、人手が不足していたので渡りに船であった。次郎は父が住んでいるアパートに一緒に住み、土屋家から借りたもう一台の自転車で、父と一緒に工藤家に通うことになった。
その日の昼過ぎから仕事を手伝いながら、段取りを父に教えてもらい、夕方一緒に次郎が泊まっていた旅館に顔をだし、主人に改めて礼を言った。そして宿泊代を清算した。
やけに大きな声の仲居が旅館の玄関まで出て来て、
「坊ちゃんよかったね。お父さんに会えて」と言って、見送ってくれた。
次郎の荷物を見た吉蔵は、その少なさに思わず涙を流した。よほど急な旅立ちだったのだと感じ取ったからだった。
アパートは旅館から自転車で十分足らずの場所だ。吉蔵は黒磯のことを知りたがった。次郎は母のことや兄弟の近況を話した。遅くまで話は尽きなかった。
「おどう、土屋さんの人達はみんないい人だね」
「んだ。三年前から世話になっている。あれから俺もいろいろ考えた。結論として、黒磯には戻らないことにした」
「僕も戻るつもりはない」
「そうか、次郎。しかし、お前が生まれ育った黒磯だぞ。それでも戻るつもりはないのか」
「戻るつもりはない」と唇を強く噛んだ。
次郎の話を聞き、吉蔵は暫く考えていた。そして、
「これから当分ここで一緒に暮そう」と、意を決した態度で、次郎に言うのであった。