江戸をぶらつこう(本所・深川)
( 本所・深川 )
本所・深川は共に江戸初期のころは遠浅の海でした。慶長から元和にかけて神田駿河台を切り崩して埋め立てたということです。
下谷から本郷へ抜ける道に「切り通し」の名が今も残っています。本所・深川は井戸を掘っても不味い水しか出なかったので、水屋という商売ができました。深川万年橋の住人、松尾芭蕉は何かの書に「深川の水は不味い」と書いております。
埋め立てと同時に基幹の水路として現在の両国橋と新大橋の中間に隅田川と直角に結ぶ堅川、清洲橋上流に竪川と並行して小名木川を掘って、この二つの川に4・5丁おきに直角に交差する道を造り、川の上にはそれぞれ橋を架けました。
竪川に架かる橋を隅田川に近い方から、一の橋、二の橋、三の橋、四の橋と呼びました。
道路は一つ目、二つ目、三つ目、四つ目通りとしました。これらの通りは町名でもありました。吉良上野介の下屋敷は本所二つ目でした。
二つ目通りの小名木川に架かる橋は高橋で此処には駒形と共に江戸時代から有名な「どぜう屋」があります。
竪川・小名木川に直角に交わる基幹の掘割りに、大横川・横十間川などがあり、本所深川の水路・道路は碁盤の目のように整然としています。
錦糸町が当時の江戸の最東端でしたが、現在、駅の北側が錦糸町、南側が江東橋といいます。
錦糸町は戦後アメ屋横丁として有名になりましたが、時代が落ち着きますと、皆、元の商売に戻り、現在は数件の飴菓子問屋があるだけになりました。
一方、江東橋は都電のターミナル・デボットで、停留所名は本所七不思議の錦糸掘で、ここから西荒川、葛西橋、東京駅、築地、日比谷行きが発着しておりました。
戦後、進駐軍に宝塚劇場が接収され、アーニーパイル劇場となると、宝塚少女歌劇の東京公演を此処の江東劇場で行いました。
この頃は、此処へ集まってくる山の手のお嬢さんと下町の娘さんの違いは少年の目にもはっきり識別できました。今は街で見かける限り、女子大生だか水商売の人だか見分けがつきません。
昔は、身形風体でその人の職業環境が推測できましたが、今は無理のようです。
両国公会堂旧安田庭園のあるところは横網町ですが、土地柄か、よく横綱町と誤読されます。
ヨコアミと関係があるのか、本所はメリヤス屋の発祥地だそうです。語源はポルトガル、スペイン語から来たらしいのですが、不明です。
元禄時代(一六八八~一七〇三)にはその名前も定着したらしく、女利安、女利安須と書いたようです。メリヤスはなぜか莫大小とも書きます。
千葉街道(国道14号)に面して全国のメリヤス屋の本部があります。
深川は、昔 門前仲町と木場と貧乏人の町であったそうです。
仲町は富岡八幡宮と成田山別院の門前町として栄え、いまも富岡八幡宮の境内には代々の横綱の碑があります。また此処の祭りは、江戸三大祭の一つです。
木場は材木問屋の町でした。店先には「林」が立ち並び、掘割の到る所に船の通るスペースを残して製材前の丸太が筏のように浮かんでいました。これを筏師が水に漬かっていた丸太を裏返していました。これが今、江戸無形文化財の筏師の角乗りです。
新しくできた新木場に材木問屋が移ると、用の無くなった堀割は消防水利以外は埋立中です。寂しい限りです。
深川丼・深川鮨というのがあります。
深川丼は浅蜊(アサリ)を甘辛く煮込んで汁と一緒に飯の上に乗せたものです。
深川鮨は握り鮨の元祖と言いますがどうもそうではないらしいです。
文政年間(一八一八~一八二九)に、両国の与兵衛鮨の工夫によるもので、待たずに食えたので気の短い江戸っ子に気に入られて大繁盛だったと、物の本に載っていました。
鮪が鮨種になったのは、これよりのちの天保の改革(一八四一)の時に、値の高い鮨を売ったとして鮨屋の亭主が二百人余り検挙されましたが、この年は偶然に鮪が大漁で、これを鮨に使い、安く売った日本橋の恵比寿鮨が始まりということです。
猿江の恩賜公園や白河のアパートなどは貧民救済策の一環でした。
また、住吉の「あそか病院」は九条武子夫人の慈善によるものと聞きました。故浅沼稲次郎(社会党委員長)は白河アパートの住人であることを、誇りとしていたようです。