短編小説「別杯」12
鈴木(私)の夕張時代(1)
北海道の夕張は坂が多い土地でね。V字形の地形に沿うように住居が建っていた。
僕が小学校一年生の二学期になったころ、父親の実兄が夕張で落盤事故にあい、半身不随になってしまった。事故の前に既に離婚していた伯父は、三人の子供を抱えていたが、どうにも按配が悪くなり、僕の家族六人にツナばあさんを加え七人で、日高の襟裳から夕張に引っ越したわけ。
先発隊でツナばあさんが夕張に出発したが、大夕張と夕張を間違えて大夕張に行ってしまったそうだ。
昭和三十三年の冬のことだったな。
後発隊は襟裳から朝、バスで様似に出て、そこから汽車に乗った。その時僕は生まれて初めて汽車に乗ったのよ。汽車は白煙をあげて走ってね。わくわくしたのを覚えている。
追分で夕張行きの汽車に乗り換えて、夕張駅に着いたのがその日の夕方だった。駅からしばらくは平らな道だったが、途中から上り坂で、着いたのが福住二区の十軒長屋だった。
家の二階にあがって外の景色を見た。夕張は山と山の間の裾に住宅(炭住)が綺麗に並んで建っていた。向かいの社光地区、高松地区の夜景があまりにも綺麗だった。
次の日の朝、外の景色を眺めてビックリした。各戸の煙突から出る煙の煤が、積もった雪の上に落ち、雪が墨色でところどころ黒い縞模様になっていてね。
夜の夕張の眺めは炭住街の家並みの灯りでとても綺麗だが、昼間の景色はどす黒い油煙で、夕張の斜面が汚れていた。
あるとき、どこからかチーズが送られて来た。ツナばあさんは、石鹸と間違えてそれで顔を洗った。顔がヌルヌルになってしまい皆で大笑いした。当時まだチーズについて馴染みがなかった。
また、テレビは一部の家にしかなかった。当然ブラウン管の白黒テレビ。夕方、テレビのある家に姉妹と一緒に見に行った。漫画番組を、借りてきた猫のように隅で小さくなって観た。その家では、夕食中のことが多かった。
観終わって、「ありがとうございました」といって我が家に戻った。
その後暫くして、父親がテレビを買ってきてくれた。当時のお金で七万円もする高価なテレビだった。買ってきたときの父が頼もしかった記憶がある。
当時のテレビはすこぶる大事にされた。観ていないときには布のカバーが掛けられた。プロレス中継の時など、ツナばあさんは遠慮がちに後ろのほうで観ていたが、興奮してきて、前へ前へと移動。ついにはテレビの真ん前に居座って興奮していたな。ばあさんのその姿が今でも瞼に残っている。
そのツナばあさんは、七十二歳でガンを患い死んだ。
夕張は、昔ドイツ人で鉱物学者のライマンが、夕張の山中に入り、ここに大きな石炭の層があるだろうと話したことから開発が進んだとのこと。
昭和三〇年代初めの夕張の人口は十二万人を超えていた。炭住街には十軒長屋が立ち並び、夜の帳が降りた頃は、夜景が素晴らしかった。またあまり知られてはいないが、夕張の紅葉は綺麗だ。ところが、それを見過ごす人が多いのよ。
石炭を掘り出す前までは、夕張を縦に貫く『シホロカベツ川』は透き通った川で、鮭が遡上したと云われていたけれども、洗炭によって、真っ黒い川に変貌していた。川魚が住める環境では無くなっていた。夕張の子供たちは、川は黒い水が流れるものと思っていた。文明途上の生産活動というものは環境を破壊しながら発達するのかもしれない。閉山になって久しい今、また元のように、魚が住める川に戻っていると思う。
当時の夕張は、丁未、福住、高松、社光、住初、本町などと地区ごとに区分され、沢山の人がいた。小学校、中学校、高校の数も多かった。
夕張の石炭は質が良く、可燃性ガスが多く含まれていた。鉱内では落盤事故やガス爆発事故の危険が多く、時には大きな災害があった。
労働組合の力も強く、夕炭労といって羽振りがよかった。会社名は北海道炭鉱汽船株式会社といってね、会社から巡視船『ゆうばり』を国に寄贈したとも云われていた。
石炭産業は国策の一つだった。戦時中には朝鮮半島から日本へそして夕張の石炭掘削作業に駆り出された人もいた。僕が住んでいた同じ長屋にも、日本に来て日本人の女性と結婚して住んでいたおじさんがいた。そのおじさんがよく私に話して聞かせてくれた。
「日本にきて、炭鉱夫として働き出したときは、非常にきつかった。日本人からの差別も受けた。毎日悔し涙を流した。毎日ヤリキレナイ気持ちだった」
その後、大人になった僕は、日本の恩人である国の人をいじめるとはとんでもないことだ! 同じ人間を差別する、いじめる、無視する。絶対いけないことだ! 本末転倒だ! この地球上から、人種差別を無くすことだ。人間尊厳の考えを地球上に流布させることが大切だと思った。