短編小説「別杯」1
年末のある日、近所に住んでいる榎さんが、我が家を訪ねてきた。
妻がインターホンのボタンを押した。「どちらさん?」
すると元気な声がインターホン越しに返ってきた。
「榎です!」
珍しいこともあるものだと思いつつ、私は玄関扉を開けた。そこに立っていた榎さんは大きなビニール袋を私に差し出して、
「田舎から送ってきたもので・・、一人では処理しきれないので持ってきた」とにこやかに言った。袋の中にはリンゴが仰山入っていた。
「こんなに沢山戴いても、僕たち二人じゃ食べきれないよ」と私は悲鳴をあげた。
「入んなよ、どうせ暇だろ」
「ま、そんなところだ。少しお邪魔するか」と榎は、玄関でサンダルを脱ぎすて部屋に入ってきた。
「榎さん、リンゴありがとう。いま、お茶を入れるね」と妻が言う。
「榎さん、そこのテーブルの椅子に座りなよ」と私が促す。
榎さんは、テレビの真正面に座って、「ここに来るのも久しぶりだな」と独り言を言う。そして、「お茶より酒がいいな」と好き勝手なことを言う。
「残念ながらうちには置いてないよ」
「今度、用意しておいておくれよ」と勝手なことをほざく。
私は、殆どアルコールはやらない、というより飲めない質だ。
とりあえず、お茶で我慢してもらい、二人でテーブルに向かい合った。
「何か楽しいことはないかね」と榎さんが私に向かって尋ねた。
「今度、あそこのカラオケ屋の親爺を誘って吉原にでも繰り出すか」というではないか。私は気のない返事をした。
「ところで、榎さんのところは、婆さん元気か、最近見掛けないが」
「よくぞ聞いてくれた」と榎さんは声を落として、
「僕がうっとうしいのか、三日前、神戸の娘のところに出かけ、暫く帰ってこない」と呟いた。
「飯はちゃんと食っているのか?」
「毎日の献立は、決まっている。朝は野菜と食パン一斤にバターやジャムを塗ったくり、それで終わり。昼は蕎麦か素麺、夜は麦酒に缶詰」
「毎日同じか?」
「そうだ、面倒だからそうしている」
「外食はしないの」
「たまにね、ところで、鈴木さんは三食どうしてるのかね」
「まあね、適当だね。女房がつくってくれる美味しいものを食っている」
「そうか、羨ましいね」と、榎さんは妬ましい素振りで話した。
「ところで、何か変わったことはないかね」と私が訊ねると、榎さんが急に勢い込んで、
「昨夜、びっくりしたね」
「なにかあたのか?」
「ほれあの、地震のことさ」
「地震があったの?」
「鈴木さん知らないの」
「僕はとっくに寝ていたよ」
「寝ていても、あの地震じゃ、大抵起きるよ」
「全然、気が付かなかった」と私が言うと、榎さんは呆れたような目で私を見つめた。傍にいた妻が微笑んだ。
「小松左京の日本沈没が現実味をおびてきたな」と榎さん。
「驚かさないでちょうだいよ」と私は、榎さんの顔を見た。
お茶が無くなっているのに気づき、妻が二杯目を淹れた。榎さんは二番茶を美味しそうに啜った。
「ところで、最近物忘れが酷くなってね」と私が言うと、榎さんが、
「僕もそうなんだ。すぐ出てこないんだよ。特に人の名前が出てこない・・」
「榎さん、それは刺激がないからだよ。最近興奮することがあったかい」
「無い、何もない」
若い時に比べ、歩くスピードがやけに遅くなった。話すスピードもゆっくりになった。高い声が出ない。物忘れが酷くなった。家に閉じこもっていると、会話はテレビのみ、そのうち体中の筋肉が硬直してきて、首が下に曲がってくる。歩くたびに顔が下を向くようになる。危険信号である。
「榎さん、私達は何か行動を起こさないといけないね」
「そうだ! 鈴木さん。行動を起こそう。ところで何を起こすのかね」
「だから、その行動とやらを、これから考えるのさ」と私は、胸を張って応じた。
ともかく、その行動とやらを、銘々が考えることにして、榎さんは帰っていった。
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