短編小説「大衆酒場(2)ラーメン一杯30円」
昭和三十五年の秋も深まったある日の昼近く、ここ荒川区の高架下にある大衆食堂に、家族風の三人が、店に入ってきた。
三十歳代の男と女、それに七歳くらいの女の子だった。
身なりは路上生活者ではないにしろ、十年程前の時代遅れの着古した服装であった。
店内にいた客同士、初めての客には、いつも暖かい思いやりの心で接している。いつからか、自然にそのような雰囲気が、かたち作られていた。
その日も常連客は、新顔の三人の客の席を空けた。
女が、か細い声で、
「ラーメンをください」と注文した。鈴ちゃんが、
「え、ラーメンですか?」と聞く。
「はい、ラーメン、三つください」とその女はさっきよりも多少大きな声を出した。
ラーメンが出来た。当時は一杯三十円であった。
「はーい! おまちどうさまー」
張りのある明るい鈴ちゃんの声が、店内に響いた。
他の客は、その三人をチラチラ見ながら、よほど事情があるのだろうと、ささやきあった。
三人連れは終始無言で、無精ひげの生えた男の顔は、苛め抜かれた末の無力感が漂っていた。女は何かにおびえるような顔をして、じっと下を向いている。
力無くラーメンを食べ終えた三人連れは、清算をして出て行った。
さあ、店の中ではおせっかい虫が蠢きだした。
どんな事情があるにせよ、かわいそうだとか、身投げでもしなければいいがといった、深刻な話しまで飛び出す始末。
それほど、その三人は、時代遅れの切羽詰った雰囲気だった。
ところが三人の客が出て行って間もなく、鈴ちゃんが悲鳴をあげた。
十円玉一個のお釣りを渡し、受け取った百円札を確認したとき、板垣退助の百円札ではなく、一枚の枯葉だった。
店の客は、鈴ちゃんがいまの客に騙されたと思ったが、鈴ちゃんが間違いなく札で受け取ったと主張するに到り、皆が大層不思議がったのである。
すぐに常連客の一人が、三人の後を追ったが、ほどなく店に戻ってきた。
見失ってしまったのだった。
それから二ヶ月ほどたったある寒い日、あの三人がまた店を訪れたのである。
三人とも、服装は前回と同じで、冬に耐え得る身なりではなかった。
店の客は涙で先が見えなくなるような、哀れんで声を掛けたくなるような三人であった。またしても、客はささやきあった。
また、鈴ちゃんが騙されはしないか、気が気ではなかった。
鈴ちゃんは、緊張した目で三人を睨みつけていた。
女は、またラーメンを注文した。
三人は無言で啜り合い、食べ終わった。
そして勘定を済ませる時、鈴ちゃんが、
「ラーメン三つで九十円です」と周りに聞こえるように、大きな声を出した。
そして確かに受け取った。百円札を。
三人が店を出て行った後、またもや枯葉一枚に変わっていたのである。
皆は驚くやら不思議がるや、大騒ぎとなった。
鈴ちゃんが、直ぐに三人を追いかけたが、見当たらなかった。
ここの高架下の食堂は、大晦日も開店している。
いつもは、午前一一時に開店し、午後三時までだが、その日は、朝の九時から夕方の六時まで営業している。普段よりも長い時間、店を開いている。
店の主人も、張り切って厨房に立っている。
年越し蕎麦が多く出るとあって、朝から大忙しであった。
開店からひっきりなしに客が入り大賑わいだったが、夕方になり、多少空きだした。
六時には店を閉めるので、店にやって来る客は数える程だった。
その時、暖簾を潜り入ってきた三人連れ、それもあの三人であった。
前回と同じ身なりであった。
三人は空いている席に座り、ラーメンを注文した。
鈴ちゃんは、厨房にいる主人を見て、どうしようかという顔をした。
主人は縦に首を振り、にっこり微笑んだ。
三人がラーメンを食べて、女が鈴ちゃんに、札を渡そうとしたとき、
「どのようなご事情か知りませんが、お金はほんものの・・」と鈴ちゃんが言った。
女は今にも消え入りそうな言葉で、
「騙すつもりはなかったのです。近くの斎場から来たもので、お金が無かったので・・申し訳ありません」と言った。
鈴ちゃんは、ピンときた。
このような不思議なことがあるものかと、心の中で叫んだ。
その時、店の主人が厨房から、三人に声を掛けた。
「いいのですよ」
三人は、深々と頭を下げて店を出て行った。
三人の目には清い涙が光っていたのを、店の皆は見逃さなかった。
その後、あの三人は二度と、その店に来ることはなかった。
ラーメンで、あの家族を供養できたのなら、それで良いのだと鈴ちゃんは思った。
この店には、様々な事情を抱えた客が入ってくる。
粋で人情溢れる店になったものだと客は囁き合った。
主人も鈴ちゃんも店の常連客も、来年は必ず良い年にしようと思った。
夕日が綺麗だった。遠くの富士山が、茜色に染まっていた。