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短篇小説(連載)星堕ちる⑨
そのころ、日本を取り巻くキナ臭い状況は、益々抜き差しならないところまで来ていた。
次郎は父が亡くなってからも土屋家の用務を任され、牛、馬、鶏、チャボ、犬などの世話や給餌、それに田畑に出ては、草取り、消毒、植え付け、刈り取りなど、忙しい日々を過ごしていた。世の中が戦争で騒然とする中で、次郎だけは毎日仕事に大忙しであった。そして四年が経った。
ここ修善寺からも若者が兵隊に取られていった。しかし、次郎には招集令状が来ないのである。次郎は何かの手違いがあり来ないと思っていた。
実は、次郎が黒磯から修善寺に来た時、住民移動手続きをしていなかったため、行方不明となり、修善寺の役場では、次郎を把握することが出来なかったのである。
戦況が厳しくなり、物資が不足しだすと、都会から大勢の人がここ修善寺にも来るようになった。物々交換を目当てに必死の思いで来る。痩せ細ってふらつきながら、大きなリュックサックを背負い、食べ物を目指して土屋家にも押し寄せてきた。その人々の対応は主人の儀一か、嫁のサチと相場はきまっていた。
終戦に近い昭和二十(1945)年五月のある日、大きなリュックサックを背負った、いかにも都会から来たとみえる一人の青年が、土屋家の玄関前に立った。
「御免下さい」
「どちらさんですか」サチが玄関先に立った。
その青年は、東京の深川から来たという。如何にも疲れ果てた容姿である。何でもいいから食べ物と交換して欲しいと、持ってきた女ものの着物や男物の衣類、日用品類をリュックサックから出し始めた。
「あいにく、穀類は底を尽き、交換できるものはないがや」
「口に入るものなら何でもいいです。頼みます」
そのやり取りをしていたとき、次郎が母屋を通り過ぎようとした。その青年は、次郎の方に向き、縋り付いた。
「何か食べるものありませんか? お願いします」
「困ったな。奥様、あれ少し分けてもいいでしょう」
サチは反応鈍く頷いた。その青年の目の色が輝いた。毎日のように都会から人が来る。いつもは無いと断るのだが、次郎はなぜかその青年に興味を持った。次郎は昨年採れた穀物を少々分け与えた。その青年は何度も頭を下げ、感謝の言葉を次郎に言った。戦火で焼けただれた大都会。しかし、今後復興が始まると全国から人が集まるだろう。学校もできるだろう。文化の、また政治・経済の中心となるだろう。次郎は近い将来、東京に行きたいと考えた。
「青年さん、東京も大変なようだね」次郎は彼が持ってきたリュックサックに、芋やニンジン・玉ねぎなどを詰め込みながら言った。
「お兄さんは地元の方ですか?」
「此処じゃない。栃木の黒磯の出だよ」
「そうですか、こんなにたくさんありがとうございます」
「ここの嫁さんには内緒だよ」
その青年は素直に「はい」と応えた。
「君は東京のどこから来たの?」
「深川です、三月の大空襲で、殆ど焼けてしまいました」
「出来れば、君の住所を聞いてもいいかな」
青年は、わら半紙に鉛筆で住所と名前を書いた。
「前田と言うのだね」
「そうです。うちは運よく建物の一部が被災しただけで助かりました」
「気を付けて帰るのだよ」次郎はそう言って、青年の痩せた肩に手をかけた。
前田はずっしりと重くなったリュックサックを背負い、土屋家を後にして駅に歩いて行った。