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短編小説「大衆酒場(3)ヒグマのような大男」

 昭和三十六年、春から初夏になろうかというある日の昼時、荒川区高架下の大衆食堂にバタバタと一人の大男が入ってきた。
  その男の素性は、店の常連客は誰も知らない。
 まして、この店の看板娘の鈴ちゃんも初めてみる大男だった。
 そして、その男の挙動が普通ではないことを、このあと判ることになる。
  大柄でその身体から発せられる声がまた大きい。
 まさに北海道のヒグマのような姿なのである。
 
 店では昼時の忙しい時間帯であるにもかかわらず、その男は二人分の席を奪い、大声で次から次へと、鈴ちゃんに注文している。
 見ず知らずの店に入り、我が物顔で食べて飲んでいる。
 出て来た食べ物はすぐ平らげて、空いた皿を鈴ちゃんが片付けなければテーブルはすぐ一杯になってしまう。
 その男は、ここニ、三日食べ物にありついていない様子である。
 飲み物と言えば、ビール瓶五本以上を、すぐ開けてしまった。
 周りの客連中は呆れてしまって、箸を持ったまま口をあんぐり開けていた。
  この店は古く、戦後まもなく先代の主人がうどん屋から始めた。
 当時は日本中が食べ物に飢えており、大層繁盛した。
 店の周りには、いまも下町情緒が残っている。
 この大衆食堂の開店時間は午前十一時で、閉店は午後の三時と早く、日曜日は休む。
 店の前には、この時季、菖蒲の花が発泡スチロール箱の中で数本、凛と咲いていた。
 
 その日も昼時で、次から次とお客が入ってくる。
 席が空くまで立ったまま待つ客が、その店の外で列をつくり始めた。

 大男が大きな声で注文すると、看板娘の鈴ちゃんは嫌な顔一つ見せず、「はい、ありがとうございます!」と受答えている。
 その男は、周りの喧騒お構いなく、どんどん注文する。
 お金は持っているのか? 店の客は不安顔で、その男を見守っていた。

 列に並んでいた一人の男が、大男の隣のテーブルに座った。見るからにチンピラ風にみえる。
 座るなり、チンピラ風の男は、
「あんた、そんなに食って飲んで、金持っているのか?」と聞いた。
 その大男は、返事もせず、ただがむしゃらに、食べ物を口に放り込んでいる。
「おい! きこえているなら、返事ぐらいしたらどうだ!」
 店の客は喧嘩が始まりはしないかと、気が気でない。
 事の成り行きに、固唾を飲んで見守っている。
 突然、その大男が食べ物を口に入れるのを止めた。そしてチンピラ風の男に向かって、
「すみません、大丈夫ですよ」と言った。
 皆は呆気に取られた。
 その落ち着いた丁寧な言葉を聞いた隣の男は、気持ちが萎えてしまい、気が抜けた仕草をした。
 相も変わらずその大男は、ビールを喉に流し込み、注文した料理をどんどん食べている。
 大男が座っているテーブルの周りだけがスポットライトが当ったように、浮きあがっていた。
 周りの人々が一斉にその大男を注視している。
 異様な熱気であった。
 
 その大男が店に入ってきてから、二時間ほど経っただろうか。
 ビールは十本、品書きに書いてある食べ物は、片端から注文して胃袋の中に収めてしまった。
 張飛や関羽ではあるまいし、店の中にいる客が、これからの成り行きを見つめるのであった。
 
 大男はやっと立ち上がった。そして蚊の鳴くような小さな声で「お勘定」と言った。
 鈴ちゃんは、「はい?」と聞き直した。
 そして「はい、お勘定ですね」と確認して、算盤を弾いて紙切れをその大男に差し出した。
 その大男はおもむろに懐から、大きな財布を取り出し、千円札を二枚出し、鈴ちゃんに渡した。
「毎度ありがとうございます。二千円入ります」と鈴ちゃんは、大きな声で厨房のほうに向かって言った。
 そして「はい、お釣です」とその大男に渡した。
 大男は「美味かった」と低い声で言って店を出て行った。
 
 大男が出て行ってからというもの、大盛り上がりをみせた。
 何せ二千円近くも一回で、それも一人で飲んで食べてしまう男なんて、見たことも無い。
 店の客は、「たまげた・たまげた」と笑いこけていた。そして、またいつくるか噂し合った。
 
 それから一ヶ月ほど経った梅雨の頃、昼前に突然その大男が店に入ってきた。
 店の中にいた客は、びっくりするやら驚くやら。
 鈴ちゃんが「いらっしゃい!」と大きな声でその大男を迎え入れた。
「待ってました!」と常連客が囃し立てる。
 男は、前回座ったその席に座った。二人分占領して座るなり、
「ビールお願い」と注文した。

 店にいた客は、前回と同じく、互いに顔を見あわせて、囁きあっている。
 その後、その大男は、どんどん注文をした。
 そして大いに食べて飲んだ。
 周りの客は、呆気に取られながらも、この大男の素性を知りたがっているようだった。
 常連客の一人が、「・・おまえが聞いてみたらどうだ」
「おれか? ・・おまえが聞ききなよ」
「清算のときに鈴ちゃんから、聞いてもらったらどうかなあ」
 周りでざわついていることにお構いなしに、大男はさらに食べて飲んで、満足そうである。
 ほぼ二時間たった頃、「お勘定」とまた小さな声で言う。
 鈴ちゃんが、
「はーい、まいどありがとうございます」と計算した紙切れをその大男に渡した。
 一ヶ月前とほとんど同じ金額である。支払いを済ませると足早に店を出ていった。
 男が去った店では、また大騒ぎになった。
「何処の人かねえ?」
「そうだねえ、ここら辺じゃみかけねえ顔だねえ」
「本当にあの大男は人間かよ」
「人間以外、考えられないじゃないか」
「今度、この店に来た時には、誰か、後をつけたらどうかねえ」
「そんなことしたら、失礼だよ」
「しかし、どうも気になる人だねえ」
「無銭飲食でもないし、罪人でもない、ただの大食漢だよ」
「しかし変わった人だねえ」
「今度こそ、本人から聞いてみよう」
「そうだ、そうしよう」ということになった。
 
 ところが、その年の夏が過ぎ、秋風が吹き始めても一向にその大男は高架下の大衆食堂に顔を出さなかった。
 その後、いつの間にか、出入するお客の間から、大男の話題が消えていった。
 
 年を越し、新年を迎えた。
 この下町は新しい年を祝い、賑やかであった。
 その大衆食堂も、元日のみ休みをいただき、二日から開店した。
 
 その日、開店前つまり午前十一時少し前、鈴ちゃんが玄関を箒で清めていたとき、不意にその大男がやってきたのである。
 鈴ちゃんは驚いた。
「お客さん、まだ開店時間には・・まあいいや、いらっしゃい! さあどうぞ」
「ありがとうございます」とその大男が、丁寧に頭を下げ、店内に入ってきた。
 いままでニ回とも、薄汚れた作業ズボン風にジャンパーといった身なりだったが、今回は、ビシッと背広姿で決めていた。
 ほかに誰も客はいない。その大男はいつもの席に陣取った。そして座るなり、
「今年は良い年になるように、しっかり働きますよ」
 鈴ちゃんは、せわしく開店準備をしながら相槌を打っている。
「お客さん、しばらくですね。お元気でしたか」
「はい、あれから様々な事件の処理で、ここまで足を運ぶことがままならず、今日まで、ご無沙汰していました」
「そうでしたか、ところでお客さん、仕事は?」と鈴ちゃんが何気なく尋ねた。
「はい、実は刑事でして」と手帳を見せた。
「ああそうでしたか、それは大変な仕事ですね、以前この辺で事件か何か?」
「はい、高架向こうの商店街にあるマンションで事件がありましてね」
「そういえば、昨年の五月頃、なにやら新聞沙汰になった事件がありましたね」と鈴ちゃんが言った。
「あの頃は、毎晩張り込みをしていまして、大変でした」と言いながら、頭を掻いた。
「それにしても、お客さんは大食漢ですね」と鈴ちゃんが、口にものを運ぶ仕草をした。
「我ながら笑っちゃうんですよ」と、背中を丸めながら答えた。
「ところで何になさいます?」
「ビール貰います。それとお新香」
 その日は、ただそれだけで、出て行った。まだ、十一時を少々廻った時分である。
 
 前年の五月頃に起きた事件というのは、近くのマンションで、外国人の男性が何者かに胸など数箇所を刺され、搬送先の病院で死亡するという事件であった。
 現場には犯人に結びつく証拠品が何も見当たらず、警視庁の大勢の捜査員がマンション周りなどくまなく聞き込み調査を実施したが、手がかりも一切無く、いまだに解決を見ない事件であった。
 その大男の刑事は事件後、しばらくこの事件を担当して、昼夜分かたず捜査に奔走していたのであった。その折、この食堂に立ち寄ったのだった。
 
 昼にかけて、どんどん客が入ってきた。
「ちょっとあんた、さっきあの大男が来たんだよ、それがあんた、その男、刑事だったのよ、私驚いちゃったよ」と、鈴ちゃんが興奮気味で常連客に話している。
 店にいた客は、驚きながらも互いに顔を見合わせて苦笑い。とにかく、その大男の素性が判り、皆安堵した。
 
 それから一ヶ月後の昼時、店が混み始めたころ、その大男の刑事が店の
暖簾を潜った。
「はーい、いらっしゃい」と元気な声。店の客が一斉にその大男のほうに目をやる。そして、ついに来たかという顔で大男を見た。
 
 その刑事は、ビールを飲みながら、こう切り出した。

「ところで、みなさん! お願いがあります」と、店内にいた常連客に向かって、
「どんな些細なことでもいいですから、昨年の外国人殺人事件で、気が付いたことがあったら、教えてください。お願いします」と、ぺコンと頭を下げたのである。
「いいとも、協力するぜ、なあ、みんな」と客から声があがった。
「ありがとうございます。宜しくお願いします」と、また刑事は頭をさげた。
 常連客は、大男の連絡先を聞き、どんな些細なことでも連絡した。
そして、そのなかの一つの情報から、犯人逮捕に漕ぎ着けたのだった。
 
 ある日、刑事が自腹でその大衆食堂を貸切り、捜査に協力してくれた客を集め、慰労会を催した。
 昼間から飲めや歌えの大騒ぎとなった。
 宴たけなわの頃、その刑事がおもむろに立ち上がり、
「みなさんのおかげで、事件を解決することができました。
 ここは、江戸時代から続く、相互扶助といいますか、お互い助け合う心がいまだ健在な街であります。
 最近は世知辛い世の中ですが、この共存共栄が日本の発展、思いやりに繋がるものと思います。
 この町、そしてこの店を大事にしてくださいね。本当にありがとうございました」と皆に礼を言った。

 その日の宴会は午前十一時に始まり午後二時にお開きとなった。

 次の日も、その次の日も大衆食堂では、相変わらず飯時ともなれば、賑わいを見せ、昭和の人間模様が、繰り広げられたであった。

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