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短篇小説(連載)星堕ちる③
次郎は五月一日、黒磯を立ち、修善寺に向かった。静が握り飯と、僅かばかりのお金を持たせてくれた。持ち物といえば多少の着替え程度だった。もう黒磯には戻ってこないだろうという思い詰めた感情の中での旅立ちであった。
汽車を乗り継いで修善寺に着いたのが、その日の午後三時過ぎだ
った。河津桜はすでに葉桜になっていた。
駅前の派出所で、旅館を紹介してもらった。
修善寺駅から三十分ほど重い足取りで歩き、寂れた旅館にたどり着いた。
これからいつまで父を探すことになるか。もしかして父はここにいないかもしれない。
遠い親戚の話を一縷の望みに、父の吉蔵を探すことになる。不安だけが募った。無謀な行動だったと一瞬脳裏に浮かんでは消えた。
木々に囲まれたその旅館の建物は古く、それでも玄関先には打ち水がしてあり、奥深い歴史を感じる雰囲気である。どこからか香の匂いが漂っていた。
「ごめんください」と次郎は叫んだ。
奥から「はーい」という女性の声がした。細身の躰を着物で包んだ年の頃六十ほどの、声がやけに大きい女性だった。ここの旅館の仲居だった。
次郎は、その女性の威圧を感じながら、
「泊めてくれますか」といった。
「いいですよ・・学生さん?」仲居は次郎を、鋭い眼差しで睨みつけた。
「この春、卒業したばかりです」
「年はいくつ?」
「十四です」
「まだ子供でないかい。ところで、何泊ぐらいかね」
「それが、いつまでか、わかりません」とはっきり言った。
「兄さんは一人かね」
「はい、そうです」
「大丈夫かね?」とその女性は独りごとを言った。そして、
「お金はあるの?」と蔑むような物言いで次郎に聞いてきた。
次郎は、
「多少の持ち合わせはあります」と緊張のあまり、その女性の目を直視しながら、はっきりと言った。
「離れの二階の部屋だったら空いている」
「お願いします」と言った次郎は、内心ほっとした。
次郎は二階のその部屋に入った。少ない荷物を部屋の隅に置き、座卓に座って自分でお茶を入れて飲む。腹は減るし、喉が渇いていた。
次郎は落ち着かない素振りで、窓外の景色を眺めていた。
その離れの部屋には、すぐ裏手に山が見える。鬱蒼とした木々が迫り、息が詰まりそうな部屋だった。
次郎は持参した物入れ袋の中から、一枚の写真を取り出した。吉蔵の写真だった。今まで幾度も手に取ったセピア色の写真であった。実直そうな人の好い顔立ちが写真の中で微笑んでいた。その父がある日突然いなくなってしまったのである。
父が今も修善寺のどこかにいることを願った。これからどのようにして、ここ修善寺で父を探すのか、途方に暮れるのであった。
夕日が部屋の窓から部屋に入り込み、次郎の顔を赤く染めた。そしていつの間にかまどろんでいた。
階下から何か呼ぶ声がした。声がやけに大きい仲居の声だ。夕食の用意が出来たとのことだった。次郎は起き上がり、階下の食堂に降りた。
食堂は十人ほど座れる広さの畳敷きの部屋だった。長テーブルがあり、その上に食事が載っている。八人ほどの膳が用意してあった。
その食堂の、入って右側に、手作りの本棚があり、その中から「修善寺物語」という本を選び、ぱらぱらとめくってみた。岡本綺堂の作品であった。
以前学校で日本の歴史を習った際、鎌倉時代の第二代将軍が源頼家だと教えてもらったのを思い出した。
仲居にお願いした。
「すみません。この本、部屋で読んでもいいですか?」
すると、その仲居が、
「兄さんには難しいかもしれないけど、いいよ。持っていきな。以前泊った客が置いて行ったようだから。読んだら間違いなく戻しておくのだよ」と言ってくれた。
十四歳の次郎には、その文面の意味がよく分からなかった。
伊豆の修禅寺の面作り師、夜叉王のことが書かれていた。
夜叉王は将軍源頼家の命で面を打つが、死相が現れて満足のゆく作品ができなかった。催促にきた頼家はその面が気に入り、それを持ち帰るとともに、夜叉王の姉娘のかつらを側女とし若狭の局と名のらせた。やがて頼家は北条の討手に襲われ落命し、かつらはその面をつけて身代りになろうとして深傷を負って家に戻った。夜叉王は頼家の運命が面に現れたものと、自身の技芸に満足し、断末魔の娘の顔を写生する。
岡本綺堂が、修禅寺の寺宝の頼家の面と称する古色蒼然たるそれをみて詩趣を覚えて創作した本であった。
夜遅くまで次郎は、その本を読んだ。読み進むにつれ、徐々にその本の内容が掴めてきたように感じた。また、ここ修善寺の歴史に思いを馳せた。