短編小説「別杯」6
青空公園で二人を待っている間、私は老いることについて、以前読んだ李蓮花・劉麗芸の『高齢者。老人・年寄りという言葉のニュアンスの違いについて』のレポート(岩大語文)に想いを巡らした。
それは概ね次のような内容だったと、記憶している。
近頃出版物や新聞、マスコミなどで盛んに使われているある言葉がある。
それは高齢者だ。
以前の日本では、老人、年寄りといった言葉が使われていた。それらは、微妙にニュアンスの違いがありそうだ。
*高齢者(年をとり、第一線を退いてから久しい人、または、人生を静かに観望する状態にある人)。
*年寄り(年をとった人、もしくは武家の重臣、大奥女中の重職、町村の組頭など、人の長であった人)。
*老人(盛りを過ぎ、精神的肉体的に若いころのような逞しさがなくなった人)。
いまの日本、人生一〇〇年時代とも云われている。それほど高齢者世代が多くなってきた。最近の日本の急激な社会変化、それに呼応するように、社会表現のツールである日本語がなにも変容を来さないとは考えにくい。
もう少し深掘りすると、高齢者という言葉は、公式の文章の中でよく使われるようだ。つまり書き言葉として適切な言葉なのだろう。それに対して、年寄りとか老人という言葉は、様々な会話の中でよく使われる言葉のようだ。
たとえば、老人の冷や水、高齢者の冷や水と言うよりも、年寄りの冷や水というほうがしっくりする。中国語に比べ、日本語の構成が極めて複雑である。そして今の日本社会では、物事を客観的に表現する苦心が払われている。人々にはいろいろな感情、つまり悪い感情や差別的な感情を思い浮かばせないように表現的な配慮が多用されている。先に挙げた三つの表現方法が、日本語の急激な変化の一端を物語っているようだ。
背後からの榎さんの大きな声で、私は思考から現実に引き戻された。
「待った?」
「そうでもないよ」と言ってしまったが、すでに午後二時三十分に近い時刻になっていた。
「蛭間さんは?」という榎さんの問いかけに、私は「まだだね」と返事をした。
「忘れてはいないだろうね」と榎さんが、携帯を取り出し、電話を掛けた。
「早く来いよ!」と怒鳴っている。
「どうしたの?」と私が聞くと、
「案の定、忘れていたよ」と榎さんが、がっかりした声を出した。
結局、公園を出発したのが、午後三時過ぎだった。
榎さんが蛭間さんにブツブツ言いながら歩いている。三人は歩道側を歩いているが、時々自転車が三人の脇を通りすぎていった。その度に、気を使って歩く。三人は、蛭間さんの例の一件を話題にしながら歩く。榎、私、蛭間と一列縦隊で歩いていた。
突然、シンガリの蛭間さんが大声を挙げ、倒れこんだ。前を行く二人が後ろを振り向く。蛭間さんが倒れている傍で、自転車と若い男性も倒れていた。二人はすぐに蛭間さんを起こした。自転車が三人の後ろから走ってきて、蛭間さんと接触したらしい。蛭間さんは幸い無傷だった。自転車に乗っていた男性は、起き上がり自転車を直し、頻りに蛭間さんに謝っていた。
「すみません、すみません」
蛭間さんは、
「どうもないよ、君こそ大丈夫か」といって気を遣う。
「気を付けて運転してくれよ。自転車は車道を走行するものだ。気を付けろよな」と榎さんが注意をした。
ともかく、何事もなく良かった。その若い男性は、何遍も詫びて、また自転車に乗り、去っていった。三人は、何事もなかったようにまた歩き出した。初日は三十分ほどで、公園に戻った。
私は、そこで、出発前準備体操を忘れていたことに気付いた。次回からは必ず行うよう確認し合った。そして、いつもの喫茶店に入り、水で乾杯をして、別れた。
次週の水曜日の午後二時を確認することを忘れなかった。蛭間さんだけが、なんとなく心配だった。