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短篇小説(連載)星堕ちる⑯
ある日の夕方、たまに帰ってくるなり次郎が、ツネに対し怒鳴り、暴力を振るった。その原因は、晩飯の支度がまだというたわいのないことだった。
働いてお金を入れるどころか、一銭もツネに渡さないのだ。怒る資格などない次郎なのに。
次郎とツネが罵り合いになった。ツネは台所に走った。包丁を取り出し、その包丁を次郎に向けた。
「一緒に死のう!」
ツネの目が血走っていた。
その場が凍り付いた。
「ツネ、止めろ」次郎は飛びのいた。そのツネの額からは血が滴り落ちていた。
その形相は、次郎が父を探して修善寺の旅館に泊まったときに読んだ本のなかの、夜叉王の娘かつらの断末魔の血に染みた仮面のようであった。
その晩、ツネが家を出るとき次郎はどこに消えたのか家にはいなかった。
ツネは身なりを整え、子供たちに僅かばかりのお金を分け与え、家を飛び出した。
「お母さん、どこ行くの?」と長女の深江が泣いた。ツネは無言だった。深江は大変なことが起きると直感した。
「お母さん、行かないで!」と叫ぶ子供たちを残し、家を飛び出した。
昭和三十年一月の寒い日の真夜中だった。
夜空には星々の瞬きがあった。そのなかでもリボンのようなオリオン座が東の空から、ツネをじっと見つめていた。
どこをどう歩いてきたのか、ツネは戸田橋まで来てしまった。
戸田橋の欄干に三時間ほど居たであろうか。欄干の傍に立ち、そしてまた座り込む。それを繰り返すのだった。
薄っすらと東の空に明るさが射してきた。それまでの星の河が徐々に消えていく美しい情景だった。
橋の下の荒川の流れは、今までの次郎との苦しい生活を洗い流してはくれなかった。河の流れの中で魚が跳ねた。修善寺川のアマゴと見紛うようだった。
いっそここから身を投げ出そうと思ったが、子供たちのけなげな姿、笑顔が頭を過ぎり、死ねなかった。
ツネは立ちあがった。幾分気持ちが落ち着いてきた。
また、子供たちの一人一人の顔が、自分を救ってくれたと思うツネだった。そしてその場から重い足を引きずりながら立ち退いた。
万華鏡の様なマジックアワーがツネの背後から降り注いだ。
ツネは駅の近くまで歩いてきていた。板橋駅の踏切が閉じている。一番列車が通るようだ。
ここで死のうかと一瞬心が揺らいだが、ツネは電車が通り過ぎるのを待った。
すでにツネの中には死神は居なかった。
カン!カン!カン・・信号機はなかなか鳴りやまなかった。
ツネは信号機に向かって囁いた。
「もう大丈夫だから、もう二度とこんな馬鹿な真似はしないから」
信号機も泣いていた。ゴーゴーと電車が通り過ぎ、程なく信号機が泣き止んだ。
そのときツネは、はっとした。
このような惨めな生活になったのは次郎のせいばかりではない。
変わらなければと気づいた。
つまり、自分が変わらなければ次郎も変われないということに、初めて気付いたのであった。