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短編小説「大衆酒場(1)常連客」
昭和三十五年、この年は、ローマオリンピックがあり、カラーテレビが本放送を開始した。
巷では、子供たちがダッコちゃんを腕に付けて自信ありげに闊歩していた。
飲食街では、ズンドコ節、アカシアの雨が止むときが流れていた。
また、この年、都営一号線の押上駅と草橋駅間が開業している。
東京荒川区のガード下に、一軒の大衆食堂(酒場)があった。
その高架橋下にある大衆食堂(酒場)の、看板娘の鈴ちゃんの振る舞いが、その店を繁盛させていた。
鈴ちゃんはとにかく愛想が良く、おまけに元気が良い。
一度来店した客は、また来ようという気になる。
ところが、二、三日前から、彼女の様子がどこかおかしい。元気が無いのである。常連客は、皆心配顔だった。
季節柄、夏バテでもないようだが、声の抑揚で判る。
「鈴ちゃん、近頃元気が無いな。なにか悩みでも、あるのかい」と、常連客の一人が聞く。
この店に来る客は、心底人の好い人たちばかりである。
これっぽっちも嫌みがない。客の皆が鈴ちゃんのことを気にかけている。
その常連客が、心配そうに鈴ちゃんに聞いた。
「鈴ちゃん、恋煩いか?」
「からかわないでよー」と鈴ちゃんがほっぺを膨らました。
「それならいいけどよ。みんな心配しているよ。何か俺たちに言えねえ悩みでもあるのかよ。俺たちも、何だか元気が無くなるような気がしてさ」と言って、その客はコップのビールを一気に飲みほした。
「大きなお世話、ほっといてよ」と鈴ちゃんは言いつつ、厨房の中に消えた。
鈴ちゃんは独り身である。結婚適齢期があるとしたら、今頃がきっと旬だろう、と常連客はうなずき合う。
厨房の中にいるこの店の大将は、どこ吹く風のように知らん振りをして、忙しく立ち働いている。
鈴ちゃんの元気の無さは、恋愛とかそういうことではないらしい。
郷里に残している父親の具合が悪く、気にかけているのだった。
それから二日後、鈴ちゃんの姿は、その店から消えた。
かわりに若い娘が、慣れない手付きで店内を走り廻っている。
いつもの客は、「あれ? 鈴ちゃんは?」と、一抹の不安と寂しさを酒で紛らわしていたのである。
ある日、常連客の一人が、厨房に声をかけた。
「大将よ、鈴ちゃんは何処へ行ったんだ? 一言も言わないで黙ってこの店をほったらかしにして。なあ大将! 返事ぐらいしたらどうなのよ! 聞こえているのかい?」
大将は厨房から出てきた。そして、低い声で、
「じきにまた、戻ってくれるよ」と言った。
「何かあったのか?」
「郷里へ帰っているのよ」
「確か青森とか、以前言ってたな。何かあったのか?」
「親父さんの具合が悪く、一週間ほど暇をとってね」
「どおりで元気がなかったな・・」
他の常連客も異口同音に「そうだったな」と言った。
父親の面倒をみる者も無く、鈴ちゃんは一人で悩んでいたのである。
この一週間は、火が消えたように店の中が静まり返っていた。
鈴ちゃんは郷里に行く一週間ほど前、大将に父親の具合が思わしくなく、一度様子を見に行きたいと相談した。
大将は鈴ちゃんに電車賃を渡そうとしたが受け取らない。父親への見舞いということで、やっと受け取ったのであった。
郷里へ行く当日の朝、食堂の二階に住み込んでいる鈴ちゃんは、大将に挨拶した。
「大将、行ってきます」と鈴ちゃんが言うと、
「気を付けて、店のことは心配せず、父親孝行してきなよ」と気遣う大将だった。
郷里に帰ってから、また戻ってくるかこないか、鈴ちゃんに一切聞かない大将であった。それを聞くのは、鈴ちゃんの気持ちを重くすることだと思ったからだ。
大将の計らいではあった。
この店の看板娘が辞めてしまったら、店の売り上げはガタ落ちとなるのは、目に見えていた。しかし、大将は鈴ちゃんの判断にまかせたのである。
郷里へ帰った鈴ちゃんは、病院に出向き、担当医から父親の病状をつぶさに聞き出した。
肝臓が弱っていた。そして血圧も高かった。
鈴ちゃんは、飲みすぎ注意やら塩分控えめを、何度も父親に話した。また、隣町の老健施設にも足を運び、入所予約をしたのであった。
当時、まだ訪問介護が浸透していなかったこともあり、考えられる算段をして、東京へ舞い戻ったのである。
それから一週間ほど経ったある日、いつもと変わらず鈴ちゃんは、忙しそうに店に出て客の注文をとり、立ち回っていた。
客のあいだから、異口同音に安どの声がでた。
「大将良かったな」
「益々繁盛だ」
「鈴ちゃんがいない食堂なんか、気の抜けたサイダーみたいなもんだ」と駄洒落を言う常連客もいた。ともかく一安心といったところだ。
以前と変わらずにぎやかなガード下の大衆食堂の、活気溢れる情景であった。